202

Tuesday, February 3

節分なので豆まきをする。やる気のあるのがわたしだけなので、毎年、わたしひとりでやっている。「鬼はそとー」「福はうちー」と小声で叫んで豆を二粒、三粒ほど投げるだけの豆まき(鬼の役は割愛)。季節の行事はやったりやらなかったりで、そのやる/やらないの区別を自分の中でどうつけているのかよくわからないし、あまり考えたこともないけれど、節分は、「やる」。まいた後、夫と2人で豆一袋食べてしまう。お豆は美味しい。

それにしても、我が家に、定期購読している『みすず』の最新号がまったく届く気配がないのはなぜ。

Wednesday, February 4

松浦寿輝の「ミュージック・イン・ブック」(2月のゲストは角田光代)を聴きながら、サルボ恭子『サラダの方程式』(河出書房新社)をふむふむと読む。ほんとにふむふむ、と勉強になった、こんな素材同士を組み合わせるのか! と目を見開いた。しかし料理って、結局つくりやすいもの、つくり慣れたもの、そして自分の好きなもの、をついついつくってしまうもので、重い腰をあげない限り、なかなか冒険できない。

きょうも『みすず』届かず。

Friday, February 6

日が暮れる頃、有楽町に出て、シネスイッチ銀座で座席指定券をもらってから、新しくできたショッピングビル、キラリトギンザを偵察。喜和製作所が大々的に出店していて、アクセサリー作りのためのさまざまなパーツが売られていた。ここはいいね、いつかゆっくり買い物したい。

夫と落ち合い、ポーラ ミュージアムアネックスで「山本基 原点回帰」を観る。その後、いざゴダール。ゴダールの新作『さらば、愛の言葉よ』(ジャン=リュック・ゴダール監督、2014年)を鑑賞。現実を歪ませ、捲って、割って、男女の肉体も車も船も水も薔薇も椅子も空も波も書物も道路も雪も血も影も落葉も犬の瞳も解体して、等しい価値を与える。世界が粒子に還元される感覚。わけわからんのは相変わらずだけど、この感覚さえ得られれば、いつだってわたしは楽しい。

お腹がすいて、夕ごはんは外食にする。お好み焼き屋に入り、ベーコンとしめじとほうれん草のサラダの前菜と、黒豚焼、広島焼を1枚ずつ。それにビールを1杯と赤ワイン1杯飲む。いままで頑なにお好み焼きにはビールを合わせてきたので、ワインを飲んだのは初めてなのだけれど、思った以上によく合って美味しかった。『さらば、愛の言葉よ』について、浮かんでは消える想いを徒然にあれこれ話して、やっぱり、ゴダールの新作を観に行くのって、それ自体いつもとても楽しい、と思う。イベント性がある。

帰宅して、きょうこそは届いているだろう、みすず! みすず!! とみすずコールをしながら郵便ポストを開けたら、届いてました、『みすず』2015年1/2月号「読書アンケート特集」。やっと、やっとだよ。きょうはゴダールの新作観れたし、みすず最新号も届いたし、いい日だったなあ、と感じ入りつつ、午前1時をまわってから、あした朝一番で出す小包みの梱包作業。

Saturday, February 7

午前7時、コンビニに宅配便を出しに行く。空気はキンと冷たく澄んで冴えており、気持ちが良くて大きく深呼吸。冬の早朝散歩をしたくなった。今年の冬は暖かいからできるかもしれない。道を歩きながら、きのう観た『さらば、愛の言葉よ』のシーンを思い出す。不意に分断されるいつもの音楽、暗い室内で鈍く光る女性の裸体、ハンガーを固い床に落とす音、眠っている犬。そういえば先週観たガブリエル・オロスコでも眠っている犬の写真があった。映画が凄いのは、映画を観た翌日、目覚めると必ずその映画のシーンが瞼の裏に浮かぶこと。やはり映画を観るって強烈な体験なのだ。それゆえに映画を観る力が湧いてこないことが、ままある。昔はなかったけれど、いまは。

朝ごはん、バタートースト、りんご、ラスク、ヨーグルト、珈琲。雑用して日記をつけているうちに午前中が終わっていく。お昼は、ミートソースパスタ、キャロットラペときゅうりのサラダをつくり、赤ワインを飲む。出発まで本を読もうとページを開いたものの、昨晩が宵っ張りで、今朝も早起きしたため、ワインがすっかりまわってしまい、不本意ながらもくぅーと寝てしまう。昼寝なんてめったにしないのに。支度をして出かける。

渋谷のシアターイメージフォーラムで『鏡の中のマヤ・デレン』(マルティナ・クドゥラーチェク監督、2001年)を鑑賞。アレクサンダー・ハミッド、ジョナス・メカス、スタン・ブラッケージなどなど、彼女と一緒に作品をつくった人や活動をともにした人々のインタビュー映像と、マヤの子ども時代の写真や映画撮影中の様子、ハイチでの様子などを撮影した多くのフッテージを用いて、マヤ・デレンの一生と作品を追いかけるドキュメンタリー。インディペンデント映画のパイオニアでしかも女性作家、ということで昔から気にはなっていたものの、謎だらけだった彼女のだいたいの輪郭をつかむことができた。男性は即物的だけれど女性は違う、女性は待つことができる、女性は胎児を十月十日も体内に宿しながらじっと待つ、わたしの作品は何かが変化していく過程を、じっと待ちながら描いたもので、女性であることを強く意識しているのだ、といった趣旨の発言が印象に残った。ハミッドと一緒につくった『午後の網目』は美しい作品でわたしは大好きで、とりわけ、よくマヤのビジュアルイメージとして使われる、窓から外を眺めているカットがものすごく好きなのだけれど、あのカットはハミッドが何気なく撮影したものだということを知った。ハミッドも、マヤを取り囲むように窓ガラスに映り込んだ木々の葉がいいね、ボッティチェリのイメージだね、と言っていて、わたしは座席でそうそう、そうなのよ!! と興奮した。

帰宅。夜ごはん、お寿司、長ねぎのお吸い物、ビール。寝る前に、アレハンドロ・サンブラ『盆栽/木々の私生活』(松本健二訳、白水社)を読む。退屈。

Sunday, February 8

朝方、毛布にくるまって『現代詩文庫175 征矢泰子詩集』(思潮社)を読む。征矢泰子は京大文学部仏文科を出たあとみすず書房で編集者として働いたのだそう。それでその後、結婚、出産し、子育ての日々を送る中で、かつて書いていた詩をまた書き始めることにしたらしい。本人の書いたものや識者による評伝を読んで、孤独な自分から自分以外の人に届けたいという真摯な願いが根底にあるからこそ、彼女の作品は平易な柔らかい言葉で紡がれているのかもしれない、と感じた。これからチューリップや桜や曼珠沙華を見るたび、征矢泰子の詩を思い出すことになるのかもしれない。「はなはいつもひとよりも勇気がある」(『チューリップ』という詩に出てくる一節)。良い。「かくも容赦なくのっぴきならずひとであることの/あけてもくれてもひとでありつづけることの/そのむごたらしさのまんなかをこそ/おまえは生きよまっすぐに」(『息子』という詩に出てくる一節)にも唸る。

朝ごはん、おかかのおにぎり、長ねぎとわかめの味噌汁、卵焼き、お茶。ああ、おにぎり定食、美味しいなあ。雨が降り始める前に急いで図書館に行き、スーパーで食材と日用品を買い込む。まだ雨は降り出さない。帰宅。日記メモをiPhoneでぽちぽち書いていたら雨が降り出した。どんよりとした日曜日。お昼は、ホットケーキを焼いて、さっき買ってきたタルタルソースとチキンの惣菜パンを食べ、珈琲を飲む。かぼちゃのハーブソテー、にんじんのきんぴら、こんにゃくのピリ辛炒め、大根ときゅうりの塩麹和えなどを常備菜としてこしらえ、それから夕食用に、大根とトマトとクリームチーズと帆立を入れたバジルマリネをつくっておく。

夕食まで、山崎まどか『オリーブ少女ライフ』(河出書房新社)を読む。山崎まどかの定義によると、オリーブは、80年代にはまだすべての少女のお洒落の指針だったけれど、趣向が細分化されて、オリーブの位置づけが明確になった上で読者を獲得したのが90年代であるから、90年代にオリーブを読んでいたのが本当のオリーブ少女だ、とのことで、そうするとわたしがオリーブを読んでいたのは1991年から最初の休刊をはさんで2002年頃までだから、ドンピシャでオリーブ少女なんだろう。10代の初めに母のすすめで読み始めただけのことで、たまたまタイミングが合ったに過ぎない気もするけれど。あと、80年代のオリーブ少女ライフは一例としてわたしが書いたから、誰か90年代のオリーブ少女ライフを書いてください、とあとがきにあって、これは同感。誰か書いてくれないかな。

夕食、ビーフシチューと冷蔵庫で冷やしておいたマリネに、バゲット、赤ワイン。ジョン・ウィリアムズ『ストーナー』(東江一紀訳、作品社)を3分の2ほど読む。面白くてとまらず、徹夜で読み終えそうなところをなんとか自制した。