夏休みの課題図書 大人になってからの児童文学(1)

「最近読んだ本に植田実『真夜中の庭 物語にひそむ建築』(みすず書房)というのがあって、この本はファンタジーや児童文学を多く取りあげた読書案内なんだけど、著者の植田さんは

私のまわりにいる大人たちはあまり子ども向けの本を読んでいない。

と書く。で、読みながら、ここで指摘されているような「子ども向けの本を読まない大人」のひとりにじぶんも確実に入るので、ちょっと困ったなと。積極的に本を読むという行為にいそしんだのがけっこう遅かったものだから、いわゆる児童文学と呼ばれるものはほとんど読んでいないのです」

「『真夜中の庭』で挙げられているもので読んだものってありますか?」

「この本ってファンタジーや児童文学の紹介が大半だけど、そうじゃない本も混じっているでしょ。安部公房とかエドガー・アラン・ポーとか。『箱男』だったら熟読してるんだけどね」

「『箱男』を読む児童がいたら嫌ですよ」

「岸本佐知子が『気になる部分』(白水社)所収の「名作知らず」というエッセイのなかで、みんなが知っているメジャーな話をじぶんは知らないという話をして、

困るのは児童文学の名作のたぐいで、大人になってからはなかなか手が伸びないから、そちらの方面はほぼ壊滅状態と言っていい。

と書いているんだけど、この気もちはよくわかる。『真夜中の庭』にバーネットの『小公女』の話がでてくるけど、個人的には岸本さんの

私がいま一番知りたいのは、『小公子』と『小公女』の関係は一体どうなっているのか、ということである。

のほうに一票を投じたい。どうなってるのか知らないし。ちなみに岸本さんは『ねにもつタイプ』(筑摩書房)でも

そして『小公女』と『小公子』の違いは、いまだにわからない。

と書いていて、このネタひっぱる。児童文学に無知な側からすると、読んでいないという後ろめたさが「ねにもつ」ものとして沈殿しているとも言えるかもしれないけど」

「で、今回の企画ですよね」

「植田さんはトーベ・ヤンソンの『ムーミン童話全集』にふれながら、

ムーミンは、名前や絵は知っているけれどまず読まない。登場する動物や虫たちの奇抜でかわいい絵を見て、これは幼児だけを相手にした物語だと判断するからだろう。

と書いているんだけど、児童文学を読んでいないこちらも、けっして幼児を対象にしているからって軽く見ているわけではない。むしろ、宝石の眠る鉱山を掘り起こすように精読すればきっと充実した読書体験になるだろうことは感づいている。しかし読みたいなと思っている「大人向け」の本がありすぎるため、優先順位をつけてしまうとずるずると児童文学は後回しになってしまう。きっかけがないとなかなか難しいわけです。そこで児童文学を子どものころじゅうぶん味わってきた人に魅力を語ってもらい、教えを請うというのが今回の趣旨です」

「まずは「冒険もの」という括りで課題図書を選びました。『エルマーのぼうけん』(ルース・スタイルス・ガネット、渡辺茂男訳、福音館書店)です。数年前、全集(全3巻)を大人買いしました。奥付を見ると第100刷にもなっている名作です。ちゃんと読みましたか?」

「まだ読んでない」

「……いきなり課題無視!」

「いやー、児童文学はひらがなが多くて読むのが大変で。子どもが大人向けの本を読むときに躓くのは、じぶんの知らない漢字がでてきたときだろうけど、大人になるとひらがなばっかりだと読みづらいんだよね。ひらがながずっと続くと、あたまのなかで言葉を変換する作業が入ってしまって、読む速度が遅くなる」

「たしかにそれ、大人になってから児童文学を読むと気づくことかもしれないです」

「で、どういう話なんでしょう? 『エルマーのぼうけん』は」

「ひとことでいうならさらわれた竜の子どもを救いにいく少年エルマー・エレベーターの冒険譚です。で、ストーリーはちょっと置いておくとして、まず表紙をひらくと見返しに「みかん島とどうぶつ島のちず」という地図があって、「いびきをかいてねていたくじらの、いたところ」とか「エルマーは、このみかんの木の下でねました」とか詳しく説明が書かれているので、物語を読みながらこの地図を指でなぞることができます。地図好きなので、ここから胸がときめきます」

「この段階でむずかしい。「いびきをかいてねていたくじらの、いたところ」ってぱっと意味が掴めない。ひらがなで書かれると。難解ですよ、児童文学は。あと、「みかん島とどうぶつ島のちず」って、なぜ「みかん」と「どうぶつ」が並列関係にあるのか。「みかん」って果物の種類でしょ。一方、「どうぶつ」はカテゴリーそれ自体といっていい。「くだもの島とどうぶつ島」のほうが真っ当ではなかろうか」

「あのー、もう少し素直に読んでくれませんか? そういう屁理屈きわまりない読解を児童文学に適用してはダメです。続けますと、エルマーはりゅうを助けに入った島のなかで、次々と出くわす敵に行く手を阻まれます。その敵というのはユーモラスな動物たちで、そこでエルマーは知恵をはたらかせ、機転を利かせて動物たちをやっつけるわけですが、それらのシーンのなんとも愉快なこと。で、そうした物語をじゅうぶんに堪能したうえで、わたしが偏愛するのはエルマーが冒険にでかけるのにもっていく荷物が羅列されるところです。

エルマーのもっていったものは、チューインガム、ももいろのぼうつきキャンデー二ダース、わゴム一はこ、くろいゴムながぐつ、じしゃくが一つ、はブラシとチューブいりはみがき、むしめがね六つ、さきのとがったよくきれるジャックナイフ一つ、くしとヘアブラシ、ちがったいろのリボン七本、『クランベリいき』とかいた大きなからのふくろ、きれいなきれをすこし、それから、ふねにのっているあいだのしょくりょうでした。ふねの中のねずみをたべていきていくわけにもいかないので、ピーナッツバターとゼリーをはさんだサンドイッチを二十五と、りんごを六つもちました。なぜりんごが六つかといえば、それだけしか、だいどころになかったからです。

まずこの脈絡のないアイテムの選び方からして凡庸じゃないでしょ。だいたいむしめがね六つって、ふつう家にむしめがねがこんなにたくさんあるわけないし」

「で、ここで大人の勘繰りをするならば、のちのち展開されるストーリーから逆算して「もっていく荷物」が選ばれているという気がしてしまう。これからいっちょ冒険にでかけてくるというときに、むしめがね六つって誰か止めるよ、ふつう。しかしそういう読みかたは……」

「素直じゃない。アイテムひとつひとつにどれほどスリリングな可能性が秘められているか、こういうところにわくわくするのが児童文学の愉しみだと思うんです」

「文学は細かいところ、細部の細部をつついてこそ、と思っているけれど、児童文学でそれをやると単純に突っ込んでるだけというか、読解の悦楽を逃しているような感じがする。児童文学には児童文学にふさわしい「読み」の作法があるのではないかという気がしてきました」

「だから素直になればいいだけの話だと思いますけど」

「それが至難の業なのでは」

「ではつづいて「冒険もの」の二本目、『クローディアの秘密』 (エレイン・ローブル=カニグズバーグ、松永ふみ子訳、岩波少年文庫)です。これは家出の物語です。家出は少年少女にとって一度は試みる、試みるまでいかなくても妄想する行為ですから、児童文学では家出イコール立派な冒険でしょう。『クローディアの秘密』では、十一歳の少女クローディアが弟のジェイミーを誘って家出をします」

「これはちゃんと読みました。本のサイズが小さかったし」

「なんですかその理由は」

「いや、本の大きさっていうのはけっこう重要なポイントで、児童文学ってサイズがでかいでしょ。あれが困る。こっちの読書時間は行き帰りの通勤電車とかだったりして、本をカバンに詰めなくちゃいけない。『エルマーの冒険』はでかいでしょ、あの全3巻。『クローディアの秘密』は岩波少年文庫だから。でもこれも通常の文庫にくらべれば大きいけどね」

「理由はともかく、読んでもらったので話はしやすいですね。主人公のクローディアはとってもクレバーな女の子で、まず冒頭で

むかし式の家出なんか、あたしにはけっしてできっこないわ、とクローディアは思っていました。かっとなったあまりに、リュック一つしょってとびだすことです。クローディアは不愉快なことが好きではありません。遠足さえも、虫がいっぱいいたり、カップケーキの砂糖が太陽でとけたりして、だらしない、不便な感じです。そこでクローディアは、あたしの家出は、ただあるところから逃げ出すのではなく、あるところに逃げ込むのにするわ、ときめました。どこか大きな場所、気もちのよい場所、屋内、その上できれば美しい場所。クローディアがニューヨーク市のメトロポリタン美術館にきめたのは、こういうわけでした。

と説明されます」

「めんどうくさい子どもだ」

「まあ文化系インドア女子の妄想ともいえますが、逃げ込み場所に美術館を選んだところや、なにより、自分を苦しめるものから逃れたいというよりは、何かを成し遂げるために外に飛び出したい、そして輝かしいメタモルフォーゼを遂げて帰還したい、という雄図を掲げているところがしみったれてなくて優雅ですよ。美術館で姉弟が、国有品である天蓋つきの寝台で寝起きしたり、館内の噴水で水浴びをしたり、すべての美術品について勉強するという宿題をじぶんたちに課したりしながら美術館で暮らす日々を読者も一緒に愉しむうち、物語は推理小説を読んでいるかのような様相を呈していきます。美術館に飾られた天使の像がミケランジェロの手によるものではないかと報じられ、姉弟が真偽のほどを探る挑戦をはじめます」

「物語そのものはよくできてますね」

「クローディアが解き明かした真実をじぶんだけの秘密として昇華させる体験を与える先導としてある老夫人が登場しますが、この夫人は終始語り部として物語に寄り添います。クローディアたちが窮地に陥っても、彼らを見守る視線があることで、子どもたちは心のどこかで安心して読み進めることができる。それでいて夫人はクローディアたちを子ども扱いすることなく、ちゃんと一個人として扱います。あと、クローディアたちがどうなったか最後まで見せるなんて野暮なこともしない。クローディアたちが物語から姿を消す場面も粋です。センスのいい物語だなあと思うわけで、そういう感覚はそれと知らずとも子どものなかに残るものだと信じたい」

「ほー」

「子どもたちの生き生きとした有り様、心と行動の変容を丹念に描くことで、クローディアのもつ秘密がクローディアにとって大切な意味をもち、じぶんという人間が変わるきっかけとして機能する、というストーリーに説得力を与えますが、もちろん、それ以上の意味をも宿しているということが読み手に伝わってきます。ありふれた言い方しちゃいますけど、大人にとっても味わい深いお話です。ところで『クローディアの秘密』で印象深かった箇所ってあります?」

「クローディアが怒ってるジェイミーのことを形容して

その顔は、ひげをそって小さくちぢめたネアンデルタール人のようでした。

とあるんだけど、「小さくちぢめたネアンデルタール人」ってその比喩はなんだと」

「また素直じゃない読みを……」

「素直じゃないけど、文学の生命線は細部にこそ宿ってますから」

「ええ、実はそのことについて江國香織が書いているんですよ。『絵本を抱えて 部屋のすみへ』(新潮文庫)のなかで、『かしこいビル』という絵本(これも名作!)を取りあげて。

この本は極端に親密な本なのだ。英語にINTIMATEという言葉があるけれど、まさにそういう本。

と述べながら、江國香織はこうつづけるんです。ちょっと長いけれど引用します。

メリーの大切なものが次々に紹介されていく。あしげのアップル、けがわのついたてぶくろ、スーザン、ふえ、くつ、ティーポット、なまえのついたブラシ、そして、かしこいビル。ほとんど、のぞきみのような興奮がある。私はそういうのが大好きだ。細部の持つ絶大な物語性。たとえばメリーのオーバーが鮮やかなブルーで、派手な——それでいて英国風な——裏地がついていること。ここにでてくるおばさんのうちへの旅行だけではなく、お母さんとお買物にいくときも、家族で食事にいくときも、冬のあいだずっと、おでかけのたびにメリーはこのオーバーを着ているはずなのだ。ちょうど、ごく小さい頃の私が、ローズピンクのオーバー——裏地はグレーのチェックだった——を着ていたように。メリーがどんなコートを着ているか知っている、というのが、つまりINTIMATEなのだ。メリーの赤いくつや、ふえや、お人形のスーザンを知っている、ということの特別さ。

と。丹念に細部を追うことで、物語のすべてが必然になるのだと」

2011年8月某日 東京都立中央図書館 グループ閲覧室 にて ( 文責:capriciu )