ゼーバルトのたくらみ

「ごく個人的な回想からはじめさせてもらいますが、W・G・ゼーバルトの『アウステルリッツ』(白水社)が書店に並んだとき——2003年のことですけど——すぐさま購入せず、まずは図書館で借りたんです。刊行当時書評はいくつか出ていたと記憶しているし、素晴らしい本が上梓されたということでとりわけ海外文学を好む人たちのあいだでは結構話題になっていました。で、読み終えてこれは手元に置きたいな、置いておくべき本だなと即座に思ったんだけど、当時書籍の購入費用を抑制していたこともあって、一目散に本屋に駆け込んで手に入れるなんて行動は起こさなかった。それから頭の片隅で早く買ったほうがいいよなという想いを抱えつつもずるずると放っておいたところ、2005年になって白水社の創立90周年記念出版として鈴木仁子個人訳ゼーバルト・コレクションが出るという報せが届いたわけです。全6冊の配本予定をみると最後に『アウステルリッツ』が予告されていて、改訳で登場し、解説を多和田葉子が執筆するというのでそちらを買ったほうがいいなと思って待つことにしました。改訳が出るのを。しかし、それから5年以上待ち続けることになるとは思わなかったけど」

「まだ完結していないんですよね。ゼーバルト・コレクションって」

「してないです。せいぜい待っても3年くらいで全部出揃うかなと高を括っていたら一向に出る気配がなくて。ずっと気を揉んでました。いつ現れるんだゼーバルト。ゴドーかお前は。そんな感じですよ。いつのまにやらゼーバルト・コレクションは牛歩戦術のような刊行ペースになっていて。訳者の鈴木さんはゼーバルトを訳している途中にも別の本の翻訳を出されているんです。カティア・ベーレンス『ハサウェイ・ジョウンズの恋』とヴィルヘルム・ゲナツィーノ『そんな日の雨傘に』が白水社から出ています。どちらも手にとって愉しく読んだわけなんだけれど、なんというか、まあその、どうにもなにか……」

「ひっかかる」

「そう。ゼーバルトはどうした、と。当初はコレクション全部を集める気なんてさらさらなくて、『アウステルリッツ』だけ買えばいいかなと思っていたんだけど、しばらく前に、『アウステルリッツ』だけじゃなくて他の著作もじぶんの本棚にならべてしまえと意気込みまして。装幀(緒方修一)もいいし」

「大人買いですね」

「既刊として『移民たち』『土星の環』『空襲と文学』『カンポ・サント』があるんだけど、揃えようと思ったら『移民たち』が新刊書店ではもう入手困難になってるんですよ。新品は探してもなくて、古本で買うしかないわけ。ゼーバルト・コレクションが完結する前にそもそもコレクションできない状態になってる」

「コレクションが困難なコレクション」

「白水社には全6冊の完結にあたってはぜひとも入手の容易な状態にしておいてほしいですけど」

「ではまず『アウステルリッツ』の話からお願いします」

「ゼーバルトの著作のなかでいちばん有名なのは『アウステルリッツ』だと思うけど、この本ってあらすじを紹介してもあんまり意味がなくて。さまざまなエピソードが幾重にも絡まりあっているので要約したところでさして有意義とはいえない、そんな小説です。いま「小説」と言ってしまったけれど、そもそもこの作品は小説なのかエッセイなのかも判然としなくて、ゼーバルト自身がじぶんの作品を「ジャンルを特定できない散文作品」と呼んでいるとおり、きわめて優れた「散文」としか言いようのない代物です。『アウステルリッツ』って、内容から強引に分類するならば「ホロコーストもの」という位置づけになると思うんです。実際、ゼーバルトは他の作品でもそうですけど、ホロコーストについて執拗に触れるんですね。ゼーバルト文学の核と言っても言いすぎではないだろうと感じるほど、固執する。ホロコーストについては現在でも歴史的・思想的問題として議論されていますし、小説や映画でもホロコーストを題材にした作品って毎年のように何かしらつくられていますよね。しかしながら、『アウステルリッツ』という作品は読めばすぐにわかりますけど「ホロコーストもの」のなかでは著しく異端です。数あるホロコーストを題材にした作品のどれにも似ていない。ほとんど孤立していると言っていいような散文作品として屹立している。『アウステルリッツ』をはじめて読んだとき、まずはその異様さに吃驚したんです。ホロコーストという悲劇を、単純に悲惨なこととして、あるいは現代を生きるわれわれにとっての教訓のようなものとして、ゼーバルトは書いていません。ゼーバルトの考える第二次大戦が残した傷をめぐっては『空襲と文学』に収められた論考で確認できたりするけど、『アウステルリッツ』を読むかぎりでは教育的、啓蒙的な眼差しはほとんどありませんね。たしかに深刻な話題が展開されてゆくのだけれど、ホロコーストに言及しているところも、油断すると読み手は美文に酔ってしまい、すーっと流れていってしまいかねない」

「文章それ自体が印象的ですよね。とっても流麗で」

「文体は流麗なんだけど、独特でもある」

「「とアウステルリッツは語った」の連発が」

「トーマス・ベルンハルトの『消去』(池田信雄訳、みすず書房)を彷彿とさせたりもします。あとこの本の「形式」も異様さに拍車をかける。ゼーバルトの作品の多くがそうですが、写真や図版を大量に用いるんですね。ゼーバルトの文章は、それら写真や図版をけっして説明的に語るわけでなく、ときに寄り添いながら、ときに緊張関係を孕みながら、端正な言葉の織物として展開してゆくわけです。写真や図版を縦横無尽に駆使した文学作品と解説してしまうと、「実験的なもの」を想像してしまうけれど、ゼーバルトの作品には「実験的」な作品がしばしば有してしまう初々しさというか、青さみたいなものは微塵もない。ここが不思議なところで。『アウステルリッツ』って実はずーっとむかしに執筆された作品で、近年になって発掘されたもので、21世紀になって出版されたんですと言われたとしても驚かない。でも実際には2001年に出たわけです。時代性を超克しているというか、内容から「戦後」であることは疑いないんだけど、最近の作品であるという事実を忘れそうになるんです。そして、これだけ不可解な構成をとりながらも、読後、見事なまでに味わいのある余韻を残します」

「味わいは残るんだけど、でも読み終わって、あー愉しかった、というだけの本ではないですよね」

「たしかに読み終わっても読み終えた感じがしない。読了とともに謎が深まるというか。もちろん謎解きミステリーではないので、謎は謎のまま宙吊りにされるんだけど。何度でも読めるというか、何度も読まないとまずいんじゃないかという気にさせる本です。図書館で借りると思うわけですよ、このまますんなり返しちゃっていいのかと」

「返すのに躊躇してしまう。で、また借りる」

「もう何度借りたんだかわからない。だから早く改訳が出てくれないと困るんですよ。こっちは買う気満々なので。でもさきほど「牛歩戦術」とか言いましたけど、訳者の鈴木さんも大変だと思うんです、ゼーバルトを翻訳するのって。『アウステルリッツ』の訳者あとがきで

作品に抗いがたく魅了され、一語一語を嘗めるように味わう喜びを手放したくなくて翻訳をお引き受けしたとはいえ、この半年近くは苦痛と恍惚をともに味わうことになった。

と書かれていますが「苦痛と恍惚」というのは正直なところだろうと。ゼーバルトの文章って「引用の織物」という側面もあって、あまたの小説家や思想家の声が重層的に響いている。たとえばゼーバルトってカフカが大好きで」

「カフカファン」

「『カンポ・サント』でカフカの日記やハンス・ツィシュラー『カフカ、映画に行く』(瀬川裕司訳、みすず書房)に言及していたりしますが、きわめつけはなんといっても『目眩まし』でしょう。そのなかの「ドクター・Kのリーヴァ湯治旅」という一編は、もうカフカのファンというかストーカーに近い事態になっていて、カフカの行動をゼーバルト自身の文学へと昇華しています。ゼーバルトのカフカっぷりについては解説で池内紀が具体的に書いてくれてますけど、こちらの訳者あとがきを参照すると

本書には無数といいたいくらいのカフカの引用をはじめとして、さまざまな作家の作品が数多く引用されている。気づいたもの以上に気づかないものが何倍あるのかわからないが、……

と書いてて。大変だよこの翻訳」

「あんなに気づいておきながらも「気づかないものが何倍あるのか」ってどういうことですかね」

「でも、そうしたゼーバルトの「たくらみ」を反映するのは気の遠くなるような作業だけど、そこがゼーバルトがゼーバルトたる必須条件で」

「そうそう、「たくらみ」。『アウステルリッツ』を読んでて、ちょっと笑っちゃうようなところもあって。特に写真の使い方が。ホロコーストの深刻な話がでてくるあたりで、ゲットーというかガス室を想起させるような写真が出てきますよね。それはいいんですけど、写真だけのページがつづいたりして、何枚も」

「ちょっとやりすぎだろうと」

「見開きで使ったりしてますから。どーん、と」

「あとゼーバルトはロベルト・ヴァルザーの写真を『目眩まし』で使ってると鈴木さんがエッセイに書いていて [1]

「で、『目眩まし』の該当ページを開いてみれば、顔がない」

「散歩中のヴァルザーの写真をトリミングして首から上を切っちゃって、しかも反転させているという」

「なにやってんでしょうかね? これ」

「真剣なんだかふざけてるんだかよくわからない。でも、そのあたりもゼーバルト文学の重要なところかもしれません。池内さんはゼーバルトのことを「とびきり孤独な読書を恐れない人のための作家」と書いていて、そうした孤高の姿も感触として残るけど、一方でユーモアもこの作家の外せない要素です。ゼーバルトのユーモアについては柴田元幸が『土星の環』の解説で書いていて、ユーモアを

非本質的な装飾として片付け、真剣な歴史意識を本質と捉えるのも、ゼーバルト文学の核を見逃してしまうことになるだろう。

と。最近読んだジョゼフ・コンラッド『ロード・ジム』(河出書房新社)の訳者あとがきでも柴田さんはゼーバルトの名前を出してユーモアについておなじようなことを書いている。ゼーバルトのユーモアは、ガハハと笑えるようなものではもちろんなくて、じわじわくるものです。カフカ好きだけあって。ヴァルザーのユーモアにも通じる。それもホロコーストの深刻さを中和させるためのユーモアといったものではなく、真面目さとふざけているとしか思えない感じは、あくまで同時に、共存しているという点が特徴です。明と暗がまったく矛盾せずにある。深刻さが明であると同時に暗でもあり、ユーモアが明であると同時に暗でもあるとでも言ったらいいでしょうか。その微妙な味わいを表現するには「たくらみ」が欠かせなかったのだろうと思います」

「「アウステルリッツ」という名前はオーステルリッツ駅ともかかっていて、あとアウシュヴィッツも連想させるという。題名からして「たくらみ」が潜んでますね」

「駄洒落というか言葉遊びも好きですね、ゼーバルトは。だから『アウステルリッツ』の解説を多和田葉子が書くというのはたいへん理にかなっているわけです。だから早急に改訳版の発売を」

「待ってます」

「ところでゼーバルトを読んでいたら無性にジャン=リュック・ゴダールの『新ドイツ零年』を観返したくなって。観ました? この映画」

「いや、観てないです。『アウステルリッツ』と関係あるんですか?」

「あるようなないような。あんまり憶えてないんだよね、映画の内容を。カフカとか引用されてたような気がしないでもない。たぶん関係あるよ、多少は」

「急にぼんやりした会話になってます」

「じゃあこれから『新ドイツ零年』を借りに渋谷のツタヤ直行で」

2011年5月某日 スターバックス 渋谷文化村通り店 にて ( 文責:capriciu )
  1. 鈴木仁子「ゼーバルト、トリップ、そしてヴァルザー」 []