192

Monday, November 24

月曜日は昼すぎからずっと本棚の整理をしていて、勤労感謝の日の振替休日だというのにほとんど労働である。本棚の存在を軸に部屋のレイアウトを考えているので、本の整理がイコール大掃除の様相と化す。それにしても紙ばっかりで邪魔といえばこれほど邪魔なものもなく、溜まった雑誌はそろそろ処分を考えてもよいかもしれない。『ku:nel』のような軽めのほっこり雑誌も、冊数が溜まると暴力的な重さになる。もち運びを繰り返すうちに、途中から疲れてぐったりしてきた。一冊それ自体が重い『GINZA』などを定期購読していなくてなによりである。

ぐったりしながら夕食をつくる。タコと長ねぎの白ワイン蒸しパスタにベビーリーフをのせて。白ワインとビール。連休の最終日はやけくそになって飲みすぎる傾向あり。

Tuesday, November 25

筋肉痛になった。夜、牛肉と玉ねぎと人参でドミグラスソースのシチュー、ライス、赤ワイン。

Wednesday, November 26

本棚整理の一環で、目についたものをつまみ読みしている。山口瞳『衣食足りて』(河出書房新社)を読み、『東京アートガイド』(美術出版社)を読んだ。『東京アートガイド』は2000年刊行の本で、結構な数のギャラリーが移転していて現在の情報としては使いものにならないのだが、追憶として楽しむ。

夜、白米、玉ねぎと油揚げの味噌汁、秋刀魚の塩焼き、大根おろし、きゅうりと味噌、キムチ、ビール。

つまみ読みのつづき。『STATIONERY WONDERLAND 伊東屋の文房具たち』(プチグラパブリッシング)で、伊東屋で販売されている文房具紹介の合間に、大橋歩、小野塚秋良、堀江敏幸、岡尾美代子、YOU、イッセー尾形という面々によるコラムがさし挟まっているのだが、堀江敏幸だけが「伊東屋」の店名を一切登場させずに好みの文房具について綴るという汎用性をもつ文章を仕立てあげていて、実際、『回送電車』の一篇に収まるという汎用性を発揮することになる。

Thursday, November 27

港千尋『革命のつくり方 台湾ひまわり運動 対抗運動の創造性』(インスクリプト)を読む。台湾学生による立法院占拠について書かれた本書のなかで、とりわけ印象に残った箇所(台湾での出来事について直接的にふれたものではないが)をメモ。

真理は具体的である。
劇作家ベルトルト・ブレヒトはドイツを離れ、チューリヒ、パリを転々とした末、デンマークのフェーン島スヴェンボリ近郊に移り住んだ。片田舎の藁葺の農家に仕事場をかまえ、その扉に「真理は具体的である」と書いた額を掛けていた。ナチスの侵略が拡大する緊迫した状況のなか、ブレヒトはロンドンやパリの亡命者らと接触しながら、この言葉を自らへの警句としていたのだろう。情動と感覚が多数によって共有されるのは具体的な行動を通してであり、行動に具体性を与えようとする努力である。だから群衆はモノを作り、言葉を書き、声をあげねばならなかった。その具体的なプロセスこそが政治的主体である。真理はどこか遠くにあるわけではなく、そのプロセスにある。ブレヒトの言葉は、世紀を超えて生きている。

夜、月見蕎麦、冷奴、ビール。届いた雑誌『MONOCLE』を読んだら、いきなり舛添要一が出てきて驚く。いい写真で撮られているものだから、うっかり超優秀なリーダーかと錯覚する。錯覚だろうと思う。

Friday, November 28

『東京R不動産』(アスペクト)。2006年刊行のこの本に紹介されている店舗物件3店のうち、調べたら2店が閉店していた。飲食店の寿命の短さを思いながら、夕食は近所の焼鳥店で。

Saturday, November 29

雨模様なので読書の一日。

アンガス・ディートン『大脱出 健康、お金、格差の起源』(松本裕/訳、みすず書房)を読む。

私が最初に援助と経済開発について研究を始めたころは、援助がどのくらいうまくいっているかを調べるのはかなり簡単に思えた。ご多分に漏れず、私も援助がうまくいくものだという前提に基づいて研究を始めた。なんといっても、私が貧乏であなたが金持ちだとして、あなたが私にお金をくれれば(もっといいのは毎年安定した額をくれることだが)、私は貧乏ではなくなるはずだからだ。この直感が援助にも当てはまるはずだという信念こそ私が今では「援助の錯覚」と呼んでいるものだが、この信念はあまりにも強力すぎて、間違っているかもしれないという可能性を考えることさえ、多くの人は拒否してしまう。これは実質的には援助の水力学的な見方で、すでに述べたとおり、たんなる見せかけにすぎない。

援助は、人から人へと与えられるものではない。ほとんどが政府から政府へと渡されるもので、援助の大部分が人々を貧困から救う目的では設計されていない。先ほど簡単に説明した実際の援助の仕組みではそこまではわかるが、その援助が過去50年で経済成長と貧困削減を後押ししたのか、逆に足を引っ張ったのかはわからない。援助についてのデータはDACやその他の情報源からいくらでも手に入るし、経済成長と貧困についての情報も同様だ。国によって援助の様相は異なる。ほかの国より多くの援助を受けている国もあるし、援助額は年によってもさまざまだ。そうしたデータを見れば、援助の成果はわかるはずではないか? もっと具体的に言えば、国民一人当たりにせよ、国民所得の割合にせよ、援助をより多く受ける国はより早く成長するのだろうか? もちろん貧困削減と経済成長は別物だが、経済成長こそ貧困に対するもっとも確実でもっとも持続可能な解決策だということは、理論と経験の両方が示唆している。

経済学の知見からはやっぱり経済成長が大事、という結論に落ち着く。

『図書』(岩波書店)12月号を読み、『TO magazine』(双葉社)の品川特集号を読み、『一冊の本』(朝日新聞出版)12月号を読む。『一冊の本』で佐藤優が「反知性主義者との戦いは非常に困難だ。なぜなら、反知性主義者は知識が足りないだけでなく、知識や知性を憎んでいるからだ。啓蒙による説得は不可能になる」と書いている。ここでいっている反知性主義者とは、「論理整合性の欠片も見当たらない言葉を国会という公共圏で発し、それが通用すると考えている」安倍晋三のことだが、現在の政権運営者の話にかぎらず、会社に行けば反知性主義者との出会いには事欠かないなあと思って、ああ、だから支持があるのかと納得する。

ロバート・M・サポルスキー『サルなりに思い出す事など』(大沢章子訳、みすず書房)を途中まで読んで、日が暮れた頃、図書館に本を返しに行き、夕食にはベーコンとトマトと長ねぎのパスタ。赤ワインを飲む。

花屋に注文しておいたクリスマスリースを壁に飾って、師走突入への準備完了。

Sunday, November 30

きのう読んだ口尾麻美『旅するリトアニア』(グラフィック社)に載っていたリトアニアの朝食風に朝ごはんをつくる。あくまで「風」だが。

『装苑』1月号(文化出版局)を読む。ここのところの『装苑』は、専属モデルとなったCharaと浅野忠信の長女のSUMIREがよく出てくるのだけれど、出自は煌びやかだがモデルとしての煌びやかさに欠けるように思うのだが、どうだろう。

午後、東京オペラシティアートギャラリーで「ザハ・ハディド」展を見る。「東京オペラシティアートギャラリーでは〈新国立競技場〉コンクール募集要項が発表されて以来その動向に注目し、その過程でザハ・ハディドの展覧会を計画してきました。その後、競技場をめぐってさまざまな議論が展開されていますが、設計者に関する情報が限られていると感じています」とイントロダクションで掲げられているのを横目に、新国立競技場のザハ案をじっくりと見たのだが、いやーこんな建物なくていいわ、と思ってしまった。「アンビルドの女王」と呼ばれていた時代のザハが計画した麻布十番のビルや富ヶ谷のビルの模型を見ても、竣工しなくてよかったよかったとの感想が出てしまうだけなので、単純にザハ・ハディドの建築がじぶんの好みに合わないのだという気もするが(コペンハーゲンのオードロップゴー美術館はとても好きなんだけど)、もっともどれほど奇抜な建築デザインであろうと、ザハはコンペに建築案を提出し、結果選ばれただけなのだから罪はない。問われるのは選んだ側だろう。しかし、審査した側の人物はつぎのように語るのであった。

審査委員長で建築資料館の名誉館長でもある安藤忠雄さんにも久しぶりにお目にかかった。「はいはい、僕はデザインを選んだだけ。あとはJSCに聞いてください」ということだった。

これは国立競技場のザハ案に反対している森まゆみが書いていることなので(『みすず』2014年5月号)、公平のためにある程度差し引いて読む必要があるだろうが、それにしてもこれを目にしたときは、安藤忠雄ってろくでもない人ですね、という印象だけが残る。

初台まで来たので、夕方、fuzkueを訪れる。店内の本棚に並ぶ魅力的な本の数々が気になりつつもそれは次回来たときの楽しみとして、ストラグルする [1]本としてミシェル・フーコー『知の考古学』(慎改康之/訳、河出文庫)をもってきたので、シメイを飲みながらそれを読む。

  1. http://fuzkue.com/entries/10 []