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Monday, January 27

堀江敏幸『正弦曲線』(中公文庫)をコツコツと読む。堀江敏幸の書いたものを読むときは、コツコツと、とかテクテクと、とか、粛々と、といった副詞を添えたくなる。テクテクとと言えば歩く様子だけれど、歩くことにも似ている気がするんだなあ。

夜、トマトとバジルとモッツァレラチーズのパスタ。先日、久しぶりにつくった時のほうが美味しくできた。やはり料理と習字と競馬は、一発目がいちばんうまくいく(先日、このパスタをつくったのはもう数年ぶりだったから、初めてつくったと位置づけてもよいはず)。二度目はあれっ、前のほうがうまくいった、と思い、三度目からまた少し盛り返す感じか。それでも一度目には及ばない。これ、わたしの数少ない持論のひとつ。就寝前に松田青子『スタッキング可能』(河出書房新社)を読了。

Tuesday, January 28

筑摩書房から出ている「トーベ・ヤンソン・コレクション」(全8巻)が復刊との報。数年前、この8冊が徐々に書店から消えてゆくなか、どうにかこうにか6冊は揃えたのだった。でもどうしても『石の原野』と『フェアプレイ』だけは絶版で、どこを探しても、古本屋を探しても、なかった。これですべて揃えて、わたしのヤンソン・コレクションも完結する。

一方、小林カツ代さんの訃報を知り、寂しい気持ちになる。カツ代さんは料理家としての顔しか知らないが、この方の、ダイナミックかつ繊細に、効率的に美味しいものをつくって楽しく食べようね、という真実味が感じられるレシピが素晴らしいと思っていた。私のレシピは永遠に残るから嬉しい、と語ったらしい。まったくそうだ、レシピは彼女のレシピを愛する人たちのなかに確実に残る。

夜は、ラーメン、ビール。

Wednesday, January 29

行きつけの花屋で紅いチューリップを7本買う。2100円。きょうの予算は2000円と決めていたので、1本300円と聞いて最初6本くださいと言ったものの100円オーバーくらいいいや、と思い、あっ、やっぱり7本ください、と言ったら100円負けてくれて結局2000円で納まった。こういうことでぐっと客の心をつかむことができる! ビジネスは本当に細かいところが大切なのだ。ビジネスに限った話ではないが。

Thursday, January 30

花瓶に活けた7本のチューリップが花開き、食卓を鮮やかに彩った。朝方の空気はかなり春成分を含んでいて、季節がゆるやかに進んでいることを感じる。電車に乗ったら向かいの男性が岩波文庫の『デカルト的省察』を読んでいた。その向かい側でわたしは伊井直行の『さして重要でない一日』(講談社文庫)を読んだ。

Friday, January 31

print galleryでロマノ・ヘニ「Typo Picture Book and more …」を観る。キッチンペーパーに印刷された作品(本)にのけぞる。ギャラリーで配布されているペーパーには、「文字が生まれ、言葉が印刷されてから/我々人間は図像が語るものへの接点を失い、/言うなれば文字信者となった。/それでも人間はイメージを読むのだ…」というヘニの言葉が印刷されてあった。とかく文字を追いがちなじぶんを省みつつ、この言葉を反芻する。

Saturday, February 1

午前4時に目覚めてラジオをつけてベッドのなかでしばらく聴いて、5時前に起き出して出かける支度をしたりぼーっとしたり、あっという間に15分経ち20分経ち、4時台5時台は瞬く間に過ぎていく。こんな調子で早速1月も過ぎ、2月が来た。

特急フレッシュひたちに乗って水戸に向かう。このところ、箱根やら館林やら関東近郊に行くために特急列車に乗ることが続いたが、そうした列車に乗ると、窓から見える景色はもちろん一緒に乗り合わせている乗客たちをしげしげと眺めてしまう。皆、この特急列車に乗ってどこに何をしに向かうのだろう。走り出して間もなくスカイツリーが間近に見え、とても軽そうだなあ、と思い、脳内でバルトの言葉をつるつるとたぐりよせたりした。

水戸芸術館現代美術センターで「ダレン・アーモンド 追考」を鑑賞。水戸芸術館に来るのはたぶん二度目だ。最初に訪れたのは2004年の水戸短編映像祭が開かれたときで、宮沢章夫の初監督作品『be found dead』を観るため、および宮沢章夫と松尾スズキのトークショーを聴くのが目的だった。その頃わたしは連日怒濤のように更新される宮沢章夫のブログ(この頃は「不在日記」)を毎日毎日読んでいて、「トーキョー/不在/ハムレット」や、この初監督作品についての日々の記録をくり返し読んでいるうちになんだか観に行きたくなってしまったのだった。ただわたしはいままで一度も宮沢章夫の舞台を観たことがないのだ。はるばる水戸まで遠征するという情熱を傾けておいて、これは一体どういうことか。 ((もちろん、今までだって今だって、観たいのはやまやまなのだけれど、本と美術館と映画から攻めていくとどうしても舞台まで手がまわらないのだ。わたしがあまり、というかほとんど舞台を観に行かないのは断じて興味がないからではない。ダンスだって、すごくすごく観たいものがいくつもある。))

で、ダレン・アーモンドは非常によかった、はるばる来てよかった。満月の光だけで撮影するなど写真に関する取り組みには前々から惹かれていたけれど、映像やインスタレーションを初めてしっかり観ることができて嬉しかった。初っ端の、450台もの時計の集合体に早速心つかまれ、複数のモニターを用いて中央シベリア高原にある鉱山の町を映し出す映像や、アーモンドの父親が若かりし頃を回想するインタビュー映像、西インドにある世界最大の階段式井戸でカメラを回し続けた作品など、どれもこれもさっと通り過ぎることはできない。写真作品では、太陽光だけで撮影された比叡山、夜明けの光で撮影されたフランス・ジヴェルニー庭園、カメラの露光時間を操作して撮影された日立市の桜が被写体となったもの、それらすべてに見惚れた。

京成百貨店のとんかつ屋でお昼を済ませ、再び水戸芸術館に戻って今度はダレン・アーモンド展の関連企画「再/生 映像が呼び覚ます第六感覚」を観る。5人の作家による映像作品を観ることができるが、目当ては志賀理江子の「CANARY」。期待を裏切らない素晴らしさ。あまりの素晴らしさに2回も観てしまう。

帰りの電車では眠くなってうとうとし始めた時に車内販売の女性が通りかかったので飛び起きて、ビールと柿ピーを購入。通路を挟んで隣の女の子は赤本をひらいて勉強しており、缶ビールを開ける音などたててしまって若干気が引ける。でも赤本ひらいて勉強は、わたしも気が遠くなるほど昔にやったな。

日暮里で電車を降りて、久しぶりの古書信天翁へ。稲川方人『反感装置』、『クウネル』のバックナンバー(特集:本と料理)、『メイド・イン・USA』の脚本(?)、あと洋書を2冊お買い上げ。その後、往来堂書店まで歩いて、山口晃『すゞしろ日記』『すゞしろ日記 弐』を買い、来た道を戻って古書ほうろうで吉田健一『東京の昔』、丸山眞男『忠誠と反逆』を買う。大通りを行ったり来たり、朝早くから起きて動いているというのにまったくご苦労様なことだ。ちなみに今年は丸山眞男を数冊ちゃんと読もうと思っているのだけれど、そういう課題図書だらけだというのに果たせるかどうか。近くのTALION GALLERYで石川卓磨「イーサン・ハントのフラッシュバック」を観てから帰宅。ギャラリーはもう閉館時刻を過ぎていたのに灯りがついていたので入ってしまったが、丁寧に対応してくれて、カードもくれた。心遣いが有り難かった。

Sunday, February 2

朝ごはん、クロワッサン、ヨーグルト、珈琲。食料の買い出し。お昼食、トマトとベーコンとしめじのパスタ、赤ワイン。常備菜づくり。近所の珈琲店で『すゞしろ日記』(羽鳥書店)を読む。花屋で黄色いバラを買う。萎れてきた紅いチューリップを小さな花瓶にうつし、かわりにバラを活ける。ややもすると造花と見まがうようなキッチュな黄色いバラと紅いチューリップで食卓がにぎにぎしくなった。ついつい好みでクリーム色とムラサキの花を組み合わせて選ぶようなことが多いため、この色合わせは新鮮だ。夜は、バゲット、チュロス、マッシュポテト、きのこのバターソテー、トマトとベビーリーフのサラダ、白菜とウィンナーのスープ、赤ワインをいただく。

ところできのうダレン・アーモンドの展示を観てからずっと気になっていたことがあった。昨年3月に国立新美術館で観た「アーティスト・ファイル2013 ―現代の作家たち」にダレン・アーモンドが出品しており、《あなたがいれば…》という映像と、満月の光のみで撮影した写真を観たのだが、その《あなたがいれば…》という、ダンスホールで踊り続ける男女の足元をとらえた作品がひどく印象に残っていたのだけれど、アーモンドの作品だったのか別の人の作品だったのか、記憶が定かではなくて、きのうからきょうにかけていろいろ調べてやっとアーモンドの作品だったことが判った。あの作品をまた観てみたい。やはり何でも記録しておくことは大切だ。記録しておいて何になる、という話もあるが、何にもならないことが重要なんだ、ってここ数年でわかりかけてきたのだから、何にもならないこともできるだけ真面目にやってみよう。