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Monday, February 10

ウディ・アレンが「The New York Times」紙に養女性的虐待疑惑に対する反論を書いていた。ウディ・アレンのそれでもボクはやってない。

高橋たか子『終りの日々』(みすず書房)を読む。以前、堀江敏幸が鹿島茂との対談で、フランス留学があまりに長すぎるのはよくないという話をしていたことがある。フランスに心酔し、フランスでの滞在期間が長くなってしまうと、見た目は完全に日本人なくせに本人はまるでフランス人であるかのように振る舞ってしまうという現象が生じる。完全なるフランスかぶれ。そのてのタイプの人に、堀江敏幸が「こんにちは」と挨拶したら、「ボンジュール」と返されたという。ふざけているわけではなく、大真面目にそう応えたとのこと。『終りの日々』を読んで思い出したのはこのエピソードで、西洋かぶれの滑稽さというか、イタい感じというか、まったくついていけない文章が並んでいてちょっと辟易する。しかもフランス礼賛と呼応するかたちで、きわめて凡庸な現代日本批判が展開されているのも困りもの。

会社帰りに、新宿の蕎麦屋大庵で京鴨南蛮、蕎麦がきレンコン、アウグスビール。食後、K’s cinemaに向かう。機材トラブルで予告編なしですぐに本篇が開始されるという。朗報だ。ここ数年の映画館の苦痛のひとつに、見るに耐えない予告編を数分にわたって延々見せつけられることがあるので、予告編なしはむしろ大変ありがたい話。ハル・ハートリー監督『シンプルメン』(1992)を見る。

Tuesday, February 11

スチュアート・ホールが月曜日に死去したと知る。

渋谷に着いたら駅前が警官だらけだ。機動隊の車もずらりと並んでいる。今日は何の祝日だっけ? としばらく考えても思い出せず。建国記念日でした。ハッピーバースデー。

「トーキョーノーザンライツフェスティバル」と題され、北欧映画がユーロスペースでかかっている。10時半上映開始のトーベ・ヤンソンのドキュメンタリーを見ようと10時すぎに到着したら、まさかの立ち見。ヤンソン人気をなめていた。劇場の後方で、立ちっぱなしでカネルヴァ・セーデルストロム、 リーッカ・タンネル監督『ハル、孤独の島』(1998)とカネルヴァ・セーデルストロム監督『トーベ・ヤンソンの世界旅行』(1993)を見る。脚本をヤンソン本人が書いている前者は、『島暮らしの記録』(冨原眞弓訳、筑摩書房)を映像化したような作品で、ヤンソンのフィンランドの小さな離れ孤島での暮らしぶりがよくわかる。後者は日本、ハワイ、メキシコ、アメリカ大陸を旅した記録映像を見ながら、同行・撮影したトゥーリッキとふたりでヤンソンが思い出話に花を咲かせるという、これ映画なの? と思うような作品だがそれなりに楽しめた。立ち見の疲れもあって、やや終盤だれたが。

松涛Marで昼食。アンチョビと白菜とフレッシュトマトのパスタ、サラダ、スープ、田舎風テリーヌ、赤ワイン。

松濤美術館で「ハイレッド・センター:「直接行動」の軌跡展」。ハイレッド・センターとは高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之の3名で60年代前半に結成されたグループ。彼らの当時の活動はもう戦後日本美術史の「歴史」として刻まれているので、いまさら驚きや発見があるわけではないけれど、みんな仲良しだなあとしみじみ眺めた。昼酒が効いて、松濤美術館の重役が座りそうな椅子で眠りそうになる。

寒い。天気が崩れたら雪になりそう。小畑雄嗣写真集『二月 wintertale』(蒼穹舎)を読む。

Wednesday, February 12

夜、イエローカレー、ビール。ピエール=アンリ・サルファティ監督『ノーコメント by ゲンズブール』(2011)を見る。

Thursday, February 13

『みすず』の読書アンケートで、生態学の川那部浩哉が言及する人物すべてを「さん」づけにしている。バーナード・ショーさんとか花田清輝さんとか吉田健一さんとか。『石川淳全集』(筑摩書房)を挙げているのだが、いきおい『石川淳さん全集』とでも書名も改変してもらいたいところ。

夜、ベーコンとほうれん草のペペロンチーノ、赤ワイン。

Friday, February 14

大雪で昼過ぎに会社から帰宅指示。指示というか、帰りたければ帰ってよいというゆるい感じ。帰りたいので帰る。帰りの電車で、『The Economist』誌を読む。

夜、白米、辛子明太子、大根とわかめの味噌汁、焼き魚(かます)、烏賊の塩辛、エシャレットと味噌、ビール。

Saturday, February 15

積雪の上に雨が降る。

多和田葉子が『言葉と歩く日記』(岩波新書)で言及しているのを読んで、片岡義男『英語で日本語を考える』『英語で日本語を考える 単語篇』(フリースタイル)を手にとる。日本語での表現を英語に置き換えたらどうなるかと具体的な事例をたくさん挙げているのだが、そうした実用的な内容よりも、合間合間に差し挟まれる片岡義男の外国語に対する姿勢に鼓舞された。

隅々まで注意力のいきとどいた、もちろん正確な、ある程度以上の格調を保った、論旨の明晰な、英語という言葉の構造や性能に美しく沿った英文を、領域や主題がなんであれ書くことができなければ、その人の英語は、要するに街角でなんとなくつうじるという程度を、越えたものとはならない。学習して身につけることに意味があるのは、高度な英語力だけだろう。ある程度まで高度でないことには、たとえば誰となにについて喋っても、馬鹿馬鹿しいだけではないか。
そのような英語能力の習得に向けて勉強していくとき、すべての基本となるべき最重要なものは、日本語の能力だ。およそなにを理解するにしても、その理解は、自分の日本語能力によって培われた頭のなかで、なされるのだから。

夜、白米、大根と長ねぎとわかめの味噌汁、牛肉と白菜のキムチ炒め、ビール。

Sunday, February 16

思うところあって伊藤和夫『英文解釈教室』(研究社)を読んでいる。複雑な英文を紐解く作業にあたってヒントになる点が多々あって勉強になるのだが、いまいちこなれていない日本語和訳を前に、いかにも受験勉強っぽい風情が漂ってくる。

夕方、火曜日に見たトーベ・ヤンソンの映画の復習として、『島暮らしの記録』(冨原眞弓訳、筑摩書房)を読む。

夜、野菜のキッシュ風オムレツ、ソーセージとウィンナー、バゲット、赤ワイン。