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Monday, February 3

フィリップ・シーモア・ホフマンが薬物の過剰摂取で死去という報せ。46歳。現代アメリカ映画を見ることが少なく、ましてや俳優の名前などさっぱり記憶する気のない私が知っているのだから、さぞや著名な役者なのだろうと推察しながらPodcastのBBC Global Newsに耳を傾けると、訃報の冒頭にベネット・ミラー監督『カポーティ』(2005)の一場面が紹介される。フィリップ・ホフマン演じるカポーティのあの声だけを音声で切り出すと、ホラー映画かよと思う不気味さ。

少しの残業を終えて、会社帰りに新宿の紀伊國屋書店に立ち寄る。前川國男建築のほうの紀伊國屋。7階の洋書売り場でEleanor Catton『Luminaries』(Granta Books)を買う。去年のプッカー賞受賞作品。800ページを超える小説だがペーパーバックなので持ち運びは十分可能な重さ。通勤時に読もう。

Tuesday, February 4

『Luminaries』を鞄に詰めたら、ものは軽いが場所はとる。鞄の四分の一を占領してしまった。

夕方、東京の空に雪が舞う。家に帰ったら、みすず書房から『みすず』読書アンケート特集号と図書目録が届いていた。前日に読書アンケートをすでに読んでいる人をネット上でちらほら見かけたのだが、月曜日の郵便受けはからっぽだった。定期購読しているのに遅く届くとはどうしたことか。

小西正捷(南アジア文化史)の回答を読んだら「本欄で名を連ねる常連であった兄が、この夏に逝った」とあって、小西正泰が亡くなったことをここで知る。昆虫学を専門とする人で、2011年の回答が忘れられない。

近年、昆虫食にかかわる本の出版が目立つ。

どこで目立っていたのかいまでも疑問。

夜、白米、茄子と舞茸と大根とわかめと長ねぎの味噌汁、秋刀魚の塩焼き、大根おろし、キムチ、烏賊の塩辛、マッシュポテト、ビール。

Wednesday, February 5

世事に疎いので、佐村河内守という作曲家の存在を、実はゴーストライターがいたというニュースではじめて知る。報道内容を概観して感じるのは、21世紀においてもなお、人びとの芸術作品に対してのアプローチは圧倒的にロマン派的なものが支配しているということだ。才能ある「作者」が存在し、苦悩して生まれた「独創的な」作品を前にして、人びとは「感動」する。これが「芸術」を規定する構造であり、そこから逸脱すると評価はがくんと下がる。もっとも今回のケースは詐称による逸脱ではあるけれど。そういえば、ミシェル・フーコーによる文学における作者機能分析を敷衍して、増田聡は『その音楽の〈作者〉とは誰か リミックス・産業・著作権』(みすず書房)でつぎのように書いていた。

近代美学は作者の署名とその所有、聴衆への語り手のポジション、さらには「創造性」の帰属先を、常に単一の個人へと集約させる傾向を持つ。いわゆるクラシック音楽の理念型的な作者観について考えてみよう。楽譜に表象されるレベルの「作品」を書く「作者」は、その「作品」に署名し、所有し(著作権を持ち)、さらにその作品を自らに「帰属」させる(ロマン主義的な批評にとってはその作品は作者の「表現」である)。さらには、その作品の上演は、しばしば聴衆への語りかけ(メッセージ)として受け取られ、これらの契機間のずれは、「作者」概念を動揺させないように、最小限に押さえられる。つまり、そのような「批評的諸操作」が行われるのだ。

寒い一日。夜、バゲット、ベビーリーフ、ソーセージとウィンナーとほうれん草のソテー、トマトとパプリカと玉ねぎを入れたキッシュ風オムレツ、赤ワイン。『みすず』の読書アンケートをひらきながら、ワインを仰ぐ。読書アンケートを読んでいて一番口にする科白は「知らないなあ」だ。

Thursday, February 6

ロンドンの地下鉄でスト。

『UP』(東京大学出版会)が届く。東京大学出版会に勤務する人のtwitterで「さながら歴史特集のよう」と書いていたのを読んで、まさか山口晃も? と一瞬思ったが、まさかそんなことは起こるはずもなく、年明けに風邪を引いたという話をだらだら書き、最後は二コマ余ってとってつけたような終わりかたをするという安心の無内容。37度台程度の発熱でまったく使いものにならなくなってしまうという話に共感をおぼえる。

『一冊の本』で内田樹が、『UP』で加藤陽子が、「The New York Times」紙の日本政府批判の社説(別々のもの)をとりあげている。最近グローバル展開に躍起になっているとはいえニューヨークという一都市の、発行部数だってそうたいしたことのない言ってみれば「地方紙」にすぎない新聞なのに、無駄に影響力のあるのはどうかと思うところがある。もっとも一方で、世界的にみて圧倒的な発行部数を誇る読売新聞や朝日新聞や日本経済新聞が、ほとんど影響力がないというのもどうかと思うが。

夜、イエローカレー、ビール。

Friday, February 7

『花椿』(資生堂)が届く。夜、バゲットサンド、苺ジャムパンを食べ、白ワインを飲みながらiPadで『The Economist』を読む。明日の東京地方は大雪の予報。

Saturday, February 8

未明から雪が舞い、雪が積もり、そして雪はやまない。暖房の効いた自宅に籠って一日中じっとしているのがあるべき姿かもしれないが、午前中は雪のなか近所のスーパーまで食料の買い出しに向かい、醤油ラーメンの昼ごはんを済ませて、午後は本格的に外出する。ガラガラの山手線に乗って、新宿のK’s cinemaへ。開始時間直前に着いたのに整理番号は9番。開場して、もぎりの人の「では整理番号1番から10番までの方、ご入場ください」というかけ声で、この回のすべての観客が入場終了。ハル・ハートリー監督『はなしかわって』(2011)を見る。

映画館を出ても雪はやまず、むしろ強まる風とともにどんどんひどくなっている雰囲気。しかし新宿のルミネではギャル店員が威勢よく春物を売っている。渋谷に移動。新宿より渋谷のほうが人通りが多い。TSUTAYAに寄ってレンタルDVDを物色し、新作を4本借りてしまう。大きな荷物を抱えた外国人観光客がスタバの紙コップを手にエスカレーターで降りてゆく姿を見る。観光がこんな日にあたるなんてね。

雪のなか苦労して外に出た一番の目的、Mt.RAINIER HALLで吾妻光良 & The Swinging Boppersのライブ。ゲストボーカルにLeyona。愉しい。吾妻さん、「こんなことになるとは」「レコ発ライブなのに、やるなってことか」「みんな後悔してないかー!」と後ろ向きなMC。

ソーセージとレタスのスープ、ベビーリーフとコーンのサラダ、サラミ、カマンベールチーズ、白ワインという、午前0時前の晩餐。

Sunday, February 9

空は青空、地面は雪。食卓の花瓶に挿した黄色のバラは、今週ずっと枯れることなく綺麗に咲きつづけている。

昼過ぎ、リチャード・プレス監督『ビル・カニンガム&ニューヨーク』(2010)を見る。ファッションフォトグラファー、ビル・カニンガムのドキュメンタリー。ビル・カニンガムについて不思議に思っていたことがいろいろ氷解した。

たとえば、ストリートスナップを一人一人声をかけて許可をとってから撮影しているのか? という点。彼の写真を見るかぎり、声をかけているようには見えない。映画でわかるのは、いちいち声をかけるなんて時間を無駄にすることはやらず、素晴らしく着飾った男女を見つけたらすばやくシャッターを押しているということ。しかもかなり接近して撮っている。女性の足元を後ろから近づいて撮ったりしていて、怒られたりしないのかなあと心配になる。みんなビル・カニンガムの存在を承知しているのだろうか。少年たちを勝手に撮って喧嘩を売られていたが。ほかにも、ストリートのファッション動向を察知する才能は抜群だと思うけど、彼の写真は果たしてうまいのだろうか? という点。これもビル・カニンガム本人がじぶんはいわゆる「写真家」ではないと明言していた。記録するのだ、と。記録し、収集し、分類し、発表する。

でもいまだにフィルムで撮影しているのは何らかのこだわりだろうか。それともデジタル技術を使い倒す気がないからだろうか。80歳を超えてるし。パソコン関係もじぶんでやる気はないようで、「The New York Times」紙に掲載する記事の写真選びを、若い担当の人間が操作する横で、逐一あーだこーだと口出ししながら指示していた。あまりにしつこく修正を要求するので、マウスをいじりまわしながら紙面のレイアウトを調整している担当が、途中でキレる。もちろん半分冗談で。でも心中はたぶん本気。ビル・カニンガムという人物の職人気質がたいへんよくわかるドキュメンタリー映画だった。もっとも逆に、ビル・カニンガムという人物が余計にわからなくなる映画でもある。特に、彼が毎週日曜日に必ず教会に生き、信仰をとても大切にしているということ。その件について語るとき、一瞬うつむき、沈黙する。女性と一度も恋愛関係になったことはなかったという話はすらすら語るのに。心中やいかにという感じで、ちょっと不思議な瞬間だった。ところで、電子版「The New York Times」紙のVIDEOの音声を、あんな殺風景な会議室のなかでテレコを口元に向けられ録音しているとは意想外。

夕方、ミシェル・オゼ、ピーター・レイモント監督『グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独』(2009)を見る。既知の事実も多く、後半少し飽きるけど、グールドの人生早わかりのドキュメンタリーしてまとまっていると思う。ドキュメンタリーに使える晩年のグールドの映像があまりないのか、グールドに扮した男がとぼとぼ海岸沿いを歩いたりするのだが、あのショットはいらない気がする。

夜、レオス・カラックス監督『ホーリー・モーターズ』(2012)を見て衝撃を受ける。あまりのつまらなさに。こんなつまらない作品を「13年ぶり衝撃の最新作」だとか言っていてのける宣伝惹句が衝撃的である。変わった映画であるけれど、たいした驚きはなく、つまらなすぎるので途中で寝るほどの衝撃作である。『ポーラX』(1999)を見てあまりのくだらなさに怒りをおぼえ、『ポンヌフの恋人』(1991)を見てあまりの退屈さに辟易した過去の経験から、カラックスの映画にはなんの期待もしていないのだけれど、期待ゼロをはるかに下回る作品ばかりだ。カラックス作品に対する感想は「だから何?」の一言で終わると思うのに、なんでこんなに人気があるのだろう。