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Monday, October 28

吉祥寺の百年で買った古本がリビングの床に積み上がっている。本棚に入る余地なし。

土日に行くと混むだろうと見越して有給休暇を取得し、「スヌーピー展」を見るため六本木ヒルズに向かう。平日の午前中、それも一番人が少なそうな月曜日に行ったのだが、なかなかの混み具合。

事前に読んだ『芸術新潮』のスヌーピー特集で興味ぶかかったのは、チャールズ・M・シュルツが生まれ育った環境、あるいは漫画連載の仕事をしつづけた環境、つまりはアメリカという土地の地理的な問題である。『ピーナッツ』の世界は、都市と農村の中間に位置する「スモールタウン」だと指摘する渡辺靖は、アメリカ合衆国における地政学的な文脈をつぎのように要約していた。

政治学的には、都市で民主党(リベラル)が優勢なのに対し、農村は共和党(保守)が牙城。その中間に位置するスモールタウンでは、選挙のたびに支持政党が入れ替わることも珍しくない。いわば選挙の鍵を握る地域であり、イデオロギーよりも、むしろ常識的な感覚や感性を重んじる地域でもある。アメリカ史を振り返ると、都市や農村部が60年代の公民権運動や1870年代の農民運動といった大きな社会運動の舞台となることはあっても、スモールタウンがその中心となったことはまずない。その意味では「凡庸」「退屈」とさえ言える(「ピーナッツ」という英単語には、取るに足らないこととか、つまらないという意味がある)。日々の日常の繰り返しのなかで平穏な人間関係が保たれ、豊かさと安定を享受してきたコミュニティでもある。

上記の背景を踏まえ、シュルツの育ったミネソタ州についての説明を、こうつづける。

ミネソタ州が位置する中西部はアメリカの「ハートランド」と呼ばれ、東部でも西部でも南部でもない、まさに「平均的なアメリカ」の代名詞となってきた地域である。人種構成や政治イデオロギー的にも然りだ。それゆえ、少なくとも一昔前は、全米進出を目指す企業は中西部でまずマーケット調査をしたものだ。日本の学校で習う英語は「アメリカ英語」だが、具体的には中西部のアクセントである。『ピーナッツ』が全米で受け入れられた理由の一つは、「ハートランド」に位置する州の「スモールタウン」のなかでシュルツ氏の価値観が育まれた点と無縁ではないかもしれない。シュルツ氏自身、チャーリー・ブラウンは「いわゆる『普通の人(エブリマン)』の代表です」と述べている。

シュルツはその後、当時の妻と子供たちとともに、カリフォルニア州のサンタローザに移り住み、スタジオを設立して『ピーナッツ』の連載をつづける。シュルツ美術館もあるそのサンタローザの街を取材した井出幸亮の記事も、呼応するようにシュルツの住んだ場所の地域性と『ピーナッツ』の関係についてふれる。サンタローザ、そこはヒッチコックの映画『疑惑の影』の舞台となった場所。

アルフレッド・ヒッチコック監督の1943年の映画『疑惑の影』で、主人公の叔父である男が蒸気機関車で向かっているのは、米西海岸カリフォルニア州北部ソノマ郡の街、サンタローザだ。その叔父の到着を駅で待っているのは、この街で家族とともに平穏に暮らす姪の少女チャーリー。姪は叔父の来訪を喜ぶが、しかし間もなく彼女はこの叔父に、未亡人殺しの疑いがかかっていることを知る…。「どこにでもある平凡な生活に、あるきっかけから亀裂が入り、その裂け目から非日常の不安と緊張が広がる」という構造はサスペンスの常道であり、そうした「落差」がドラマを生む以上、その舞台となる場所は“平凡”であればあるほどいい。つまりヒッチコックがこの映画の舞台にサンタローザを選んだのは、ここが実にありふれた「どこにでもある」街だったからではないか。そんな邪推も、ひとたびこの街の爽やかな気候と長閑な風景、穏やかで陽気な人々の様子に触れれば、あながち的はずれでもないという気になる。そしてこの場所で、全米中、いや世界中の人々に親しまれている「everyman(普通の人)たちの物語」が長年に渡り生み出されてきたということに、すっかり納得してしまうのである。

「古き良き」という言葉が似合うアメリカの姿がここにある。アメリカをめぐるさまざまな諸問題をいったんすべて棚上げして、アメリカっていいなあと人々が口にできる、そんな雰囲気の場所。「普通の人」の暮らす街で生まれたスヌーピーの世界を思いながら、ずらりと並んだシュルツの原画をしげしげと眺める。

WIRED CAFEで昼食を済ませ、「六本木クロッシング2013展:アウト・オブ・ダウト―来たるべき風景のために」を鑑賞。赤瀬川原平と中平卓馬の作品が印象に残った、というのはいいんだか悪いんだか。ついでに展望台も。展望台では「魔法少女まどか☆マギカ」複製原画展をやっていて、いつもと客層がちがう。

Tuesday, October 29

『図書』(岩波書店)を読む。夏目漱石が帝国大学の哲学の授業で提出した試験答案について論じた文章を、赤木昭夫が書いている。東北大学の「漱石文庫」に所蔵されているという答案は英語で書かれ(授業も英語)、一年目が75点、二年目が85点だったそうな。破棄せずに残したのは漱石本人だが、じぶんの学生時代の書いたものが後世に保管され、エッセイの対象にされるとは思いもしなかったのでは。事物の哲学的概念について漱石が書いた答案について、つぎのようなつっこみが入る。

まさにその部分で漱石は、物体AとBは非物質的であるから接触不可能であり、またそれぞれから力を流出させることもできないから、遠くへ届く力(遠隔力)を及ぼすことも不可能であるなどと、訳がわからないことを書いている。

将来に残るような仕事をしていると自負する人は、訳がわからないことを書いた文章を、いまのうちに破棄したほうが懸命かもしれない。

夜、ベーコンとほうれん草とあさりのパスタ。

Thursday, October 31

とっくに届いて放置してあった『装苑』(文化出版局)を読む。

夜、白米、わかめと長ねぎのスープ、牛肉のしぐれ煮、野沢菜の漬物。

Friday, November 1

『一冊の本』(朝日新聞出版)が届く。金井美恵子と橋本治の連載以外は、さっと流してしまう。鹿島茂の連載は、延々とつづく小林秀雄批判がいったいいつ終わるのかが関心の的。

夜、ベーコンとピーマンとキャベツの焼きそば、たたき胡瓜の甘酢あえ。

Saturday, November 2

MacBook Airを買った。iPhone、iPad mini、iMac、そしてMacBook Air。なんでこんなにアップル信者みたいなことになっているのか。もうこうなったら、発売当時無視していたスティーブ・ジョブズの評伝なんかも読んだほうがよいのではないかと思ったが、たぶん読まない。映画も見ないだろう。

ノートパソコンという新しい筆記用具が手に入ったので、今後ホームページの更新頻度をぐいぐい高める所存である。所存である。

夜、近所の焼鳥屋で夕ごはん。

Sunday, November 3

毎朝、朝食後の隙間時間を利用してちびちび読んでいた Nathan Williams, The Kinfolk Table: Recipes for Small Gatherings, Artisan を読み終える。真似しようにもそう簡単にはできそうもない、素晴らしい食卓の光景がならぶ。しかし表紙をめくって冒頭にあるのが著者本人の食卓という、じぶんのライフスタイルにどれだけ自信があるのだろうかと思う本でもある。伊藤まさこみたいだ。

夜、温かいうどん。鶏肉と卵とほうれん草と長ねぎをのせて。