Monday, October 21
都内をぐるぐるまわる山手線に乗っていると、後続の電車が遅れているのでしばらく停車しますというアナウンスがしばしば流れる。遅れている電車をちゃんと待ってあげる山手線。優しい。しかしあの放送が車内に流れるたびに、そんな優しさをわたしはJR東日本に求めてはいないし、遅れている奴などおいていけ、おいていってしまえと暴力的な近代主義者の思考で、あたまのなかがいっぱいになる。
岩波文庫のフィンランド叙事詩『カレワラ』(リョンロット/編、小泉保/訳)を手にとる。上下巻あってぶ厚い。ところどころを摘み読みするぶんにはそれなりにおもしろいのだが、通して読んでいるとだんだん眠くなってくる。厭きてきて、これはちょっと無理と投げ出し、最後の解説を先に目をとおしたら、こう書いてある。
カレワラ五〇章全部を通読するのには相当の努力を必要とする。それは表現に繰り返しが多い上に脈絡が錯綜しているからである。
勇気づけられる解説だ。
夜、白米、キャベツと油揚げの味噌汁、焼き魚(つぼ鯛)、大根おろし、キムチ、ねぎと生姜の冷奴。箱買いしたヱビスビールの缶を減らしていく日々がはじまる。
Tuesday, October 22
朝、Yahoo! JAPANのトップニュースを見たら飯島耕一の訃報。トップニュースというのが意外。飯島耕一ってそんなに有名人だっただろうか。
図書館でバルトの国々(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)を案内する『地球の歩き方』を借りた。バルト三国の近現代史を調べるとロシアの影響力の話が多分にでてくるので、アジアや欧米の大都市に比べるとはるかに治安がよいとあるのは意想外な気がした。安全なのならぜひ訪れてみたい。エストニアの「安全とトラブル」の項を確認すると、こう書いてある。
エストニアの治安は悪くない。それでも一般常識に則った注意と緊張感は必要。特にロシアなどを経て来た人は、緊張がほぐれるので要注意。
ロシアどんだけ。
夜、ビーフカレー。食後にア・ラ・カンパーニュの甘いケーキを食べる。
Wednesday, October 23
会社帰りに銀座線の青山一丁目で降りて、カナダ大使館の高円宮記念ギャラリーへ向かう。「写真・映画で見るグレン・グールド展」。会場に入るとグールドのモノクロ写真がいくつか並んでいるけれど、展示のメインは「Glenn Gould’s Toronto」(ジョン・マクグリーヴィ監督、カナダ、1979年、50分)というドキュメンタリー映画の上映。グールドが生まれ育ったトロントの街をグールド本人が紹介する作品で、脚本もグールドが担当している。日本語の字幕監修は宮澤淳一。映画というよりテレビ番組のような雰囲気で、グールドがトロントの各地をまわりながら、あれやこれや語る。ブラタモリみたいなものか。ブラグールド。
グールドが街紹介をするだけの映像作品と言ってしまえばそれまでだが、それでもグールドという人物の特性が、随所によくあらわれているのが見どころかもしれない。伝統的なクラシック音楽のピアノ奏法からすれば、革新的かつ独創的な演奏を奏でたグールドだが、彼の演奏でもっとも有名なのはクラシック音楽の父であるバッハの作品であり、現代音楽に対しては素っ気なかった。映画では、トロントが都市として発展して活気づき、賑やかな街になっていく状況に苦言を呈しながらも、一方で、最新テクノロジー大好きのグールドは、技術的な発展には賛辞を惜しまない。端から見ると、それって矛盾している態度では? と思うのだが、グールドのなかでは、おそらく矛盾していない。革新性と保守性がグールドのなかで不思議と矛盾することなく同居している。
夜、CAFE246で夕食。鶏のグリルとサラダ。
Thursday, October 24
本棚で飯島耕一の本を探したら『鳩の薄闇』(みすず書房)を発見したので、そのまま読書。
夜、焼豚とたまごとレタスとネギの醤油チャーハン、小松菜の中華風スープ。
Saturday, October 26
六本木で開催中のスヌーピー展に備えて、予習として特集を組んでいる雑誌二冊を読む。『MOE』11月号(白泉社)と『芸術新潮』10月号(新潮社)。実のところこれまで『ピーナッツ』をまともに読んだことがなく、アニメもほとんど見たことがないので、知っているのはごく狭い範囲の断片的なイメージのみ。チャールズ・M・シュルツの評伝 David Michaels,Schulz and Peanuts: A Biography も買ったのだが500ページを超える本なので、こちらは展覧会の復習として読む予定。
Sunday, October 27
『ユリイカ』11月臨時増刊号(青土社)の特集は小津安二郎。寄稿者の一覧を眺めると蓮實重彦が青山真治と対談しているのがまず目に入り、ほかの執筆陣を追っていくと宇野邦一の名前を見つけた。小津安二郎で宇野邦一、となれば蓮實重彦の『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』(NTT出版)のつぎのくだりを思い出さずにはいられない。宇野邦一の書いた『映像身体論』(みすず書房)について触れ、
だが、ドゥルーズやノエル・バーチにしたがい、小津安二郎における交わらない視線との関係でマネにおけるバーメイドの後ろ姿の「ずれ」を語ろうとするこの文章は、ほんの思いつき程度の貧しい発想をいささか大げさに論じたてただけのものにすぎず、その言葉は、小津安二郎にもエドワール・マネにもとどいてはいない。実際、小津において「誰でも異様な印象をうけるにちがいないことのひとつ」は、「視線の方向が、まったくちぐはぐな、あの型破りなモンタージュである」という宇野氏の粗雑な指摘は、誰もがそこで読むのをやめてよいと判断するに充分なものである。というのも、小津の切り返しのショットにあって、視線の方向が「ちぐはぐ」であったことなど一度としてないからである。誰もが知っているように、小津の視線は、あらゆるショットにおいて一貫しており、ノエル・バーチが問題としたのも、その一貫性が誘発する「つなぎ間違い」の印象にほかならない。
いうまでもなく、映画における「つなぎ」は、視線の交錯をめぐるものにつきているわけではない。動作の「つなぎ」もあれば、時間と空間——持続と瞬間、部分と全体、画面外と画面内、等々——の「つなぎ」もあり、それらを「つなぎ」一般として、あるいは「つなぎ間違い」一般として論じることにはいささかの理論的、かつ実践的な困難がともなう。『映像身体論』の著者である宇野氏はその困難にいたって無自覚なのだが、そのことから導きだされる好ましからぬ帰結については論じておかねばなるまい。
ボロクソに言っている。しかし『ユリイカ』を読むと、宇野邦一はめげることなく小津の切り返しについて書いていた。
今回の『ユリイカ』、賛同にせよ批判にせよ、あるいは無視も含めて、蓮實重彦という存在が亡霊のように(死んでないけど)全体を覆っているように感じた。執筆者同士の関係を俯瞰してみると、なんどなくいがみ合っているような雰囲気もところどころに散見されるなかで、廣原暁と三宅唱の対談がなごむ。ところで、夏の盛りの8月12日に行なわれたという蓮實×青山対談で、蓮實重彦がワイシャツの第一ボタンをしめ、なおかつジャケットを着ていたのが気になる。暑くないのか。青山真治はこれから南の島にでも行きそうな格好をしている。