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Tuesday, July 31

夏の午後にデュラスを読む幸福。『愛』(マルグリット・デュラス/著、田中倫郎/訳、河出文庫)を読む。

眺めている男と海のあいだの遠くのほうを、海すれすれに誰かが歩いている。もう一人の男。彼は地味な服装をしている。その顔だちは、この距離でははっきりわからない。彼は歩いている、行ってもどり、行ってまたもどる、その歩行距離はかなり長く、常に一定した足どりである。
眺めている男の右のほう、浜辺のどこかで光線の動き——ある水溜りが干あがりかけており、ある湧き水、一本の河、何本かの河が塩の淵に水を送りこんでいる。
左のほうには、目を閉じている一人の女。彼女は腰をおろしている。
歩く男は、目の前の砂以外、何ひとつ眺めない。彼の歩きかたは、間断なく、規則的で、広範囲にわたる。
目を閉じている女のところで三角形が閉ざされる。彼女は、浜辺の端の、町との境界となっている壁にもたれて腰をおろしている。
眺めている男は、その女性と、海辺を歩く男との間に位置している。
むらのないゆるやかな足どりで間断なく歩いている男のため、三角形は変形改変されてゆくが、形が崩れてしまうようなことはない。

わたしはいままでに読んだデュラス作品のなかではこの小説がもっとも好きだ。

オリンピックの表彰台に立つ選手の写真を見ると、どうしても花束に目がいく。花は偉大だ。どんな小さな花束でも、それを携えている人がたちまち華やぐ。

Wednesday, August 1

家にテレビがないためオリンピックの試合の様子や表彰式を映像で見たいのに見れないのがけっこうストレスになっていて、インターネットのオリンピックサイトやTwitterで情報収集をしていたけれどふと思い立ってきのうから動画を見始めた。それでも配信される動画は限られたもので、テレビ放映されないものがほとんどであるから自国の選手の姿が結局のところなかなか見られない。テレビなしの生活を送ろうと決めたとき、「ファッション通信」と「男子ごはん」と「日曜美術館」と「サッカーワールドカップ」が見られなくなることが心残りだったのだけれど、2014年のサッカーW杯の頃はきっとインターネットでリアルタイム配信されるにちがいない、と淡い期待を胸に未練を断ち切った。ところがオリンピックのことをすっかり失念していた。そうはいっても、テレビのある生活にほとほと嫌気がさした結果持たないと決めて、その結果きわめて快適に過ごしているのだから勝手といえば勝手なものだ。ふだん「ラジオが友だち、ラジオがあれば生きていける」などと言って暮らしているのだからいつだってそう言って暮らしておけばいいのだ。

『この人の閾』(保坂和志/著、新潮文庫)を読む。昨年は人生二度目の堀江敏幸元年だったと思っていて、今年は人生二度目の保坂和志元年にしたいと思っている。つまり、既読のものは読み返し、未読のものは積極的に読んでいきたい。作品にきちんと向き合いたい。保坂和志はデビュー作『プレーンソング』をリアルタイムで読んだのだった、まだ十代の入口に立ったばかりだったというのに! 間違いなく、本も縁だ。まだ幼くて内容を理解するのもおぼつかなかっただろうけれど何となく気に入って『プレーンソング』はそれ以降たびたび読み返す一冊となったわけだが、いつしかめっきりご無沙汰してしまっていて、とはいえ矢崎仁司監督の映画『ストロベリーショートケイクス』に保坂和志が出演しているなどという情報は地道にキャッチしていて、これは劇場に観に行ったのだけれど、間違っても保坂和志めあてにでかけて行ったわけではなかった。

Thursday, August 2

朝起きてオリンピックの結果をチェックする日々。体操男子個人総合で内村選手金メダル、競泳の北島選手は平泳ぎ200Mは4位だった。

まず定義を出して、そこから話をはじめよう。 1 古典とは、ふつう、人がそれについて、「いま、読み返しているのですが」とはいっても、「いま、読んでいるところです」とはあまりいわない本である。

という書き出しから始まる『なぜ古典を読むのか』(イタロ・カルヴィーノ/著、 須賀敦子/訳、河出文庫) を読み進める。

Friday, August 3

男子アーチェリーの古川選手が銀メダルを獲った。こうしたあまり知られていない競技でメダリストが生まれると本当に嬉しく思う。そしてその後のマスコミによるやんややんやの持ち上げを思って早々に辟易する。

夏の午後にデュラスを読む幸福ふたたび。『アガタ/声』(マルグリット・デュラス/ジャン・コクトー/著、渡辺守章/訳、光文社古典新訳文庫) を読む。デュラスの文体は心地悪さと心地良さが同居している。

続けて弾くのはやめたわ、しーんとした中で聞こえたのは、あなたが歩くのを止めて、それからまた歩き出した、と思っていたら、ふいにあなたがそこに、ドアの所に寄り掛かっていた。わたしを見つめている、あなただけに出来るあのやりかたで、見るのが、わたしを見るのが難しい、そこを無理して見ているような。あなたは笑って、わたしの名前を二度呼んだわ、「アガタ、アガタ、そんな、わざと……」だからわたしは言ったわ、「あなたが弾けばいいじゃない、ブラームスのワルツよ」そして、がらんとしたホテルの中を、また歩き出した。

巻末の、訳者による解題「『アガタ』あるいは創られるべき記憶」のなかで渡辺守章は

デュラスという作家は、現実のことであれ想像界のことであれ、自分の心の琴線にちょっとでも触れたものの記憶は、全て作品の中に取り込んでしまう作家なのであった。

と書いていた。

Saturday, August 4

朝はバゲットを大きめに切って、焼いたベーコン、レタス、輪切りにしたトマト、薄切りにした玉ねぎと赤パプリカ、パセリをテーブルに並べて好きなだけバゲットにはさんでサンドイッチにして食べた。バゲットにはマヨネーズとMAILLEの種入りマスタードを塗った。大きなバゲットをぺろりと食べてしまう。

東京都現代美術館にて「Future Beauty : 日本ファッションの未来性」を鑑賞。やけに混んでいると思ったら「特撮博物館」展を同時開催していたのをわすれていた。ブランドのコレクション映像およびコレクションで発表された服を見ると、歌や映画などと同じように、その時代その時代の光景がぱあっとよみがえる。会場では2000年春夏のジュンヤワタナベ・コムデギャルソンのコレクション映像がモニタに映し出されていて、あの、ランウェイに雨を降らせた印象的な演出に久しぶりに酔いしれた。80年代のイヴ・サンローランのザ・80年代! というコレクションも見ていて頗る楽しい。展示は 1. 陰影礼賛 2. 平面性 3. 伝統と革新 4. 日常にひそむ物語 の4部構成で、日本ファッションの黎明期としての1970年代から2000年代までをさくっと追うことができるが、もう少しボリュームがあってもよかった。あと、やはりいま若手でいちばんの注目株は「matohu(まとふ)」だろうか。ファッションをテーマにしたテキストや展覧会でこのブランドを目にしないことがない。

ミュージアムショップで林央子の『here and there vol.11』を捲っていたら好きな書き手である小林エリカと東野翠れんの文章が並んでいた。

東京駅に移動してとんかつご膳を食したのち、9月末で閉店してしまう松丸本舗をざざっと見てまわる。力をふりしぼって銀座に移動し、洋服を買う。セール品を1枚と秋ものを1枚。

夜、都内某所で今年二度目の花火鑑賞。昨年まで、花火がこれほどいいものだと思っていなかった。すっかり花火好きになってしまった。夕ごはんは、素麺、枝豆、ビールでまさしく夏、真っ盛り。深夜、暑くて宵っ張りしていたら女子バドミントンで銀メダル獲得の報。惜しかった! まあこれも映像ではなくインターネットのリアルタイム検索とやらで知り得たわけだけれど。

Sunday, August 5

競泳男子400メートルメドレーリレーで日本銀メダル、競泳女子400メートルメドレーリレーで銅メダル。

朝、鮭のおにぎり、レタスのみそ汁、ひじきの煮物、お茶。入道雲がゆっくりと移動していくのが窓から見える。

買いものがてら近所のカフェに寄ってアイスコーヒーとチョコレートケーキで涼をとりつつ、ドラクロワについてもっとよく知りたくなったので『ドラクロワ 色彩の饗宴』(ウジェーヌ・ドラクロワ/画・文、高橋明也/訳)を読み進める。

白い神の上の絵にたとえようもない繊細さと輝きをもたらすものは、おそらく紙の本質的に持っている白さに由来する透明性だ。(……)ファン・エイク、そして後にはルーベンスの作品の輝きは、彼らの板絵の白い下地に多くを負っているのだろう。最初のヴェネツィア派の画家たちは、真っ白な下地の上に絵を描いたのではないだろうか。(ドラクロワの日記より、パリ、1847年10月5日、49歳)

夕ごはんはふた晩続けて素麺、枝豆、ビール。今夜はそれにツブ貝のお刺身も加えて。