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Monday, June 3

『アイルランドモノ語り』(栩木伸明/著、みすず書房)を読む。

二十世紀ダブリンのペネロペイアは、夫ユリシーズの留守中に貞節を捨てた。これこそジョイスが仕掛けた神話的アイロニーである。長大な小説の最後に連発される「イエス」は、記憶の官能性を増すばかりで、夫に対する現在の愛は何ひとつ保証しない。妻の浮気はたぶん今後も続くだろう。にもかかわらず、シンプルなこの単語に、世の普通人(エブリマン)夫婦に用意された神話的な肯定のしるしを読みとらずにすますことも難しい。悲哀と希望は、よりあわされた縄に似ている。
「イエス」というのはすてきなことばだ。ホウス岬の崖道を歩きはじめると、ちょっとくたびれたぼくたち普通人(エブリマン)の耳にどこからともなく「イエス」ということばが聞こえてくる。イエス、イエス、イエス、イエス、イエス。その響きを聞きながら岬をひとめぐりするたびに、ぼくたちは自分を主人公に据えた神話的な生を再起動して、ちっぽけだが新しい日々の航海へと乗り出していくのだ。(p.188)

Thursday, June 6

ツタヤで借りたフリッツ・ラングの無声映画『メトロポリス』(1927年)を見る。冒頭に淀川長治の解説が付く。武満徹が『メトロポリス』の音楽が入ったのを見て愕然としたと語っていたことがあって、武満徹が聴いたものとは違うかもしれないが(ジョルジオ・モロダーの版?)、今回見たDVDも音楽は映像とぜんぜん噛み合ってなくて、音はないほうがましだと思った。しかしながら音なしだと寝てしまいかねない軟弱な映画鑑賞者なので、音量はそのままに。

見終えたあと、武満徹の発言をちゃんと確認しようと蓮實重彦との対談本『シネマの快楽』(河出文庫)を読んだら、『メトロポリス』を再見して音楽に失望したのか映画自体をよくないと感じたのか、いまいち判然としない言い方をしている。いずれにせよ、私は好きな映画。mama!milkと阿部海太郎が『メトロポリス』の伴奏付上映会を催したことがあって、音楽をつけるならこちらに差し替えて欲しい [1]

Saturday, June 8

町田へ。はじめての訪問となる町田市立国際版画美術館で、「空想の建築 ピラネージから野又穫へ」と「ELEMENTS あちら、こちら、かけら 野又穫ドローイング展」を鑑賞。はるばる町田まで足を運んだ甲斐のあった(駅からも遠い上に坂がきつい)素晴らしい内容に満足。野又穫の作品をまとめて見たのは東京オペラシティアートギャラリーでの個展「カンヴァスに立つ建築」以来だから、ずいぶん久しぶりのこと。オペラシティの2004年の展覧会はメインとしての扱いではなく、ヴォルフガング・ティルマンス展と同時開催で、野又穫の絵はいつも寺田コレクションをやっている部屋に並んでいたのだが、ティルマンスよりおもしろいということで強く記憶に刻まれた。

野又穫の絵画を見ていたら二階堂奥歯の『八本脚の蝶』(ポプラ社)を思い出して、彼女の先見にあらためて唸る。以下、2001年12月24日の日記から。

野又穫はエティエンヌ=ルイ・ブレの衣鉢を継ぐような、幾何学的で独特の質感を持つ幻想的な建築を描く人です。彼の描く巨大な建築は、人が住む実際の建物ではなくて、実物と同じ大きさに作られた建築模型のように見えます。
コンクリート(?)と鉄骨とガラスとプロペラと螺旋階段で作られ、吹き抜け構造を多用したその建築は、時に植物園のように内側に木々を茂らせているのです。
1998年の画集を見て以来、幻想建築派のわたくしとしては気になって気になって仕方がなかったのですが、画集を買いそびれている内に版元(トレヴィル)がなくなり、野又穫という名前も忘れてしまって探しようがなくて困っていたのです。でも出会いってあるものです。うれしい。
画集はすでにないけれどCD-ROMを買ったので早速デスクトップにしました。予想外のクリスマスプレゼントでした。
(今調べてみたら野又穫は『文學界』の表紙を描いているそうです。ああ、そうか。)(p.64)

町田の展覧会ではエリック・デマジエールの銅版画もあって、そういえばこの作家を知ったのも『八本脚の蝶』だった。2002年5月23日の日記を引用すると、つぎのとおり。

文字の順列組み合わせで書かれた無数の書物が収められた図書館、そこには理論上すべての本が存在する。
その完全性ゆえに、一人の人間=司書が一生の間に意味のある文章を読むことはほとんどない。順列組み合わせで出来上がった無意味な文字列が並ぶ本が収められた無数の書架が並ぶ無数の部屋で構成された無限の図書館=宇宙。
その「バベルの図書館」の愛蔵版が出ていた。
THE LIBRARY OF BABEL : Jorge Luis Borges, Etchings by Erik Desmaieres GODINE, 2008.8
「バベルの図書館」一篇に Erik Desmaieres 描く広大な神秘的な図書館のエッチングを11葉添えたハードカバー判。
なんだかとても丁寧に大事に作られた本だ。本文36ページの薄い愛しい本。
いつの日か現れる幻想建築文学全集の前触れに違いない。(p.127)

野又穫のドローイング集を購入し、美術館をあとにする。

京橋に移動して、西村画廊で町田久美の新作展を見てから帰る。夜、『雨月物語』(溝口健二監督、1953年、日本)を鑑賞。

Sunday, June 9

そのむかし表参道駅近くの南青山の細い道を歩いていたらundoseという名のバッグの展示販売をやっていて、肩掛けのバッグを買った。糸井重里がネットで紹介していたのは読んだことがあったので、存在自体は知っていた。客は私一人しかおらず、いくつかあるうちで一番気に入ったものを選んだ。バッグはその後数年間にわたり活躍し(今現在も)、デザインのよさもさることながら、丈夫で持ちやすく、しかもたくさんの荷物が入るので重宝した。荻窪のささま書店でどうかと思う量の本を買ったときも、そのバッグに強引に詰め込み担いで帰ってきたが、バッグの状態に異常なし。で、ひさしぶりにundoseのウェブメージを見たら販売をするとの情報を入手。というわけで、いざ開店時間を少しすぎた頃に表参道駅で下車して目的地まで歩いていくと、もうすでにたくさんのお客さんで売場が埋まっており、つぎからつぎへとバッグが売れてゆく。かつて一人でどのバッグにしようかと選んでいたころが懐かしい。と感慨に浸っていると、どんどん売れてしまって買えるものがなくなってしまうので、ポシェットをひとつ選んで購入。

CAFE.Zで昼食。バッグの購入で出費したので、今月はもうあまりお金を使わないようにしようと誓う。OMOTESANDO KOFFEEで一息入れてから、エスパス ルイ・ヴィトンでトーマス・バイルレの展示、ラット・ホール・ギャラリーでグレン・ライゴンの展示をぞれぞれ鑑賞後、スパイラルに立ち寄る。「crystal cage叢書」から、港千尋の『バスク七色』、河野道代の『時の光』、平出隆の『葉書でドナルド・エヴァンズに』を買ってしまう。散財だ。なんてことだ。誓いはどうした。

  1. メトロポリス伴奏付上映会|WORKS|mama!milk offcial portfolio []