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Monday, May 6

連休最終日、買いものついでに公園を散歩する。眩いばかりの美しい新緑。昼すぎに近所のカフェで珈琲と読書ののち、夕食は浅蜊のパスタに赤ワイン。

夜、『アパートの鍵貸します』(ビリー・ワイルダー監督、1960年、アメリカ)を鑑賞。

Tuesday, May 7

夜、『リリー・マルレーン』(ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督、1981年、西ドイツ)を鑑賞。

Thursday, May 9

夜、『カリフォルニア・ドールズ』(ロバート・アルドリッチ監督、1981年、アメリカ)を鑑賞。

Saturday, May 11

ここ数日は映画ばかり見ていたので、雨の降る土曜日は積ん読の片づけに精を出す。

手始めに読んだのは『世紀末芸術』(高階秀爾/著、ちくま学芸文庫)。もともとは1963年に刊行された本なのにまるで古びた感じがしないのは、著者のエレガントな文体の効果か。たとえば、冒頭。

二十世紀の芸術の歴史は、さまざまな流派や芸術運動の歴史としてとらえられる。現代芸術に多少とも関心を持つ人なら、ピカソやマティスの名前とともに、シュルレアリスムとか、抽象派というような言葉をかならず読むなり、聞くなりしているはずである。天空に向かって聳える大樹がその成長の跡を年輪に刻みつけて行くように、現代芸術は、あいついで登場する多くの芸術運動を歴史の年輪の中に記録しながら、今日まで発展してきた。(p.14)

つづけて、映画の本を二冊。一冊目は、日本映画の歴史(特に初期のこと)を知りたくて、『日本映画史100年』(四方田犬彦 /著、集英社新書)。

二冊目は、今年の二月に逝去した高野悦子による回顧録『岩波ホールと〈映画の仲間〉』(岩波書店)。岩波ホールの支配人として、その運営にあたっての出来事を時系列で書きつらねているのだが、くりだされるエピソードがどれもおもしろい。

「旅芸人の記録」はカンヌ映画祭の時にイデックの恩師ジョルジュ・サドゥール先生の夫人、ルタさんから頼まれた作品だった。デビュー作「再現」でサドゥール賞を受賞した若者が作った映画で、素晴らしいから見てほしいと、ルタさんはアンゲロプロス監督を絶賛していた。彼もイデックの卒業生だという。しかしもう上映が終わっていたので、一九七五年、エジプト訪問のあとアテネまで見に行ったのである。ところが配給業者の試写室では、いつまでたっても「旅芸人の記録」を上映してくれない。「違う、これは駄目です」と叫ぶと、どんどんポルノ映画になっていく。三時間ももめて、ついに席をけたてて帰ろうとすると、責任者らしき人が出てきて、「珍しいことです。普通、駄目だと言われれば裸の多い作品を見せれば良いのですが、「旅芸人の記録」のように長くて退屈な映画を探しにここまで来るなんて、信じられません」と真面目な顔で話し、ようやく見せてくれた。(pp.67-68)

だとか、

岩波ホールがつぶれるという噂がまた耳に入ってきた。岩波ホール創立当時、すでによく耳にしたし、エキプスタート時には、上映作品が変わるたびに言われた。「家族の肖像」の試写の時に、「あなたは本気で岩波ホールをつぶす気か、こんな退屈な映画を上映して」と言われたこともある。誰もが本気で心配して言っている様子なので、私はいつもただ承っていた。(pp.73-74)

だとか。

それはそうと日本映画をちゃんと見なくては。と、積ん読の山を崩しながら日本映画に思いを馳せる。

日本映画はハリウッドのように、アメリカ文化を代表する芸術形式として世界中を制覇しながら、みずからの「普遍性」をイデオロギー的に全世界に喧伝するということがなかった。それはいかに芸術的で海外で賞賛される場合にも、ローカルな存在に留まった。だが一方で、後続の中国映画のように、政治的陰謀や権力闘争のさいの媒体になることもなかった。イギリス映画のように、アメリカ映画から言語的圧迫を受けることもなく、日本語という閉じられた枠組のなかで制作と配給、享受がなされてきた。日本の観客は戦後ながらく、ハリウッド映画は娯楽、ヨーロッパ映画は芸術、アジア映画は真面目な歴史の勉強というステレオタイプを信奉してきた。この区分は九〇年代に無意味なものとなったが、日本映画はそのいずれにも属さないものと考えられてきた。それは若者たちにとって、肯定的な価値観を強く体現し憧れの対象である欧米の映画に比べて、どこまでも一歩劣位にあるものと見なされていた。この点で日本映画は、香港における香港映画の位置の高さに到達することができなかった。(『日本映画史100年』、pp.18-19)

という分析になるほどと思いながら、いずれにせよ見ないことにははじまらない。

岩波ホールは古い日本映画の上映で始めよう、私は最初からそう思っていた。この企画なら私がその内容を決めることができると考えたからである。しかし周囲の先輩や友人たちはことごとく反対した。せっかくできたばかりの岩波ホールを傷つけるのかと。確かに日本映画は凋落の道にさしかかっていた。あの輝くばかりの黄金時代にあった日本映画は、陰をひそめてしまっていた。しかし私は留学先のパリで、日本映画がどんなに世界の映画人の尊敬を受けているかを知っていた。なぜ日本では不当に扱われるのだろう。日本の映画人としての意地もあった。日本映画がどんなに素晴らしいか、みんなに知ってもらいたかったし、思い起こしてもらいたかった。(『岩波ホールと〈映画の仲間〉』、p.10)

Sunday, May 12

ラグを携えて、タイフェス&代々木公園でピクニック。昼すぎになると、どうかしている混雑になるので朝一番に行ったのは正解。来年へ向けての反省点としては、ウェットティッシュとビニール袋を持参したほうがいい。あと、ラーメン屋が出前で使う「おかもち」があると便利だと思った。タイ料理屋台で買ったものを「おかもち」に入れて、代々木公園の芝生に向かう。便利だろう。もっとも、まるで普段使いのように「おかもち」を持って街中を歩くのはさすがに躊躇するけれど、いちおう先駆者はいるのだ [1]

  1. 「おかもち」を普段使いに []