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Monday, December 10

82.5MHzの周波数から流れてくる天気予報が今年いちばんの寒さを伝える朝、洗濯物のバスタオルを干すためにマンションの屋上にのぼって空を見わたせば、雲ひとつない澄み切った冬晴れが拡がっている。ここ最近のパレスチナ情勢をめぐる報道を目にしながらふとエドワード・W・サイードの声に触れたくなって、Gauri Viswanathan, Power, Politics and Culture: Interviews with Edward W. Saidを通勤鞄に忍ばせた。会社で昼食後に読みはじめたものの編者の序文までで休憩時間は終わりを迎えてしまい、サイードの声まで辿り着けはしなかったが。四方田犬彦が訳した『パレスチナへ帰る』(作品社)所収のエッセイ「悲観の普遍性のなかのふたつの民族」でサイードが語っていたくだりを確認するために、定時になったらすぐに家に帰ろう。

排他的傾向の根底にある拒否とは、敵対しあう二者のうちの片方を排除しようとする。そこに横たわっているのは政治的視点というよりも、むしろ神学的視点である。これこそが真実に挑戦すべき相手である。それ以外のことは、すべてそう大したことではない。

夕餉後の私的ゼミ、本日のベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」の精読はアウラを呼吸すること、について。

眠るまでの読書として選んだのは、川村記念美術館で中西夏之展のカタログと一緒に入手した林道郎『絵画は二度死ぬ、あるいは死なない』(ART TRACE)。中西夏之の身体の受動性には去勢的な側面が色濃く、光やまなざしを欲望の志向性から解き放ちたいという感覚がつよいと論じる箇所であるとか、近代科学的なパラダイムに即した時間性から外れて、画家の絵画が存在論的な時間のありかたを意識させていると指摘する箇所などにぺたぺた付箋を貼っておく。咀嚼がそう容易でない思弁的な美術批評により脳内が沸点に達したところで、熱冷ましにと『UP』(東京大学出版会)の山口晃の漫画を読んでから、就寝。

Tuesday, December 11

サイードインタビュー本のつづきを繙こうとした昼休み、図書館に予約した本が16冊届いているのを思い出して、読書を中断して貸出手続きへ。夕食は、牛丼、お吸い物、胡瓜と味噌。晩酌とともにベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」の精読、本日は宗教/非宗教を問わず儀礼的側面をとおして一回性の芸術から逃れられなかった時代から、写真技術の誕生を経て、逃げ道としての芸術至上主義がある種の「神学」に着地した(せざるを得なかった)話などを放談。八ヶ岳山麓から出土した縄文土器や土偶を収めた港千尋の写真集『掌の縄文』(羽鳥書店)を捲りながら眠りにつく。装幀はアリヤマデザインストア。

Wednesday, December 12

タイラー・ブリュレが率いるブルジョワ雑誌Monocleがやっているラジオ番組をPodcastで聴いていたら、荻窪ささま書店で『全集』を買ったばかりのポーランドのユダヤ系作家ブルーノ・シュルツについて喋りはじめた。日本におけるブルーノ・シュルツの知名度もよくわからないが、西欧における知名度はどんなもんなんだろう。

夕ごはんのタイカレーを平らげたあと、「複製技術時代の芸術作品」の第五章に目をとおし、本日はさらっと終わるかと思いきや注釈でヘーゲルの観念論美学について言及されていたがために意想外の深みに嵌ってしまった夜。

Saturday, December 15

アメリカではコネティカット州の小学校で銃乱射事件が起こる一方、わが家ではワイングラスを割ってしまい硝子が台所に散乱する事件が発生。

本日の読書は、日本におけるスタイリストという職業の草分けである原由美子の活動をまとめた『原由美子の仕事 1970→』(ブックマン社)。以前にどこかのインタビューで、多くの人と接する仕事であるにもかかわらず、電話をかけたり人と話したりするのは嫌いと応えていたのを目にして、気になっていた人物。スタイリストの仕事が日本に根付く前の黎明期の苦労話とともに、向田邦子、高峰秀子、白洲正子との対談をおもしろく読む。

Sunday, December 16

「好きな食べものは?」「うまいもの」「嫌いな食べものは?」「まずいもの」「旅行と昼寝、どちらが好きですか?」「旅行しながら昼寝」。およそ真面目に回答する気ゼロの人物の名は、篠山紀信。「篠山紀信展 写真力 THE PEOPLE by KISHIN」鑑賞のために訪れた東京オペラシティアートギャラリーで、gallery5に置かれたテレビ画面に映し出される愛くるしい怪獣みたいな相貌の男は、繰り出される質問の数々を飄々と受け流していた。あなたにとって写真とは何か? という漠然としすぎの感は否めないもののある意味核心的な問いに対しても、そういう質問には答える気なんだよねーと素っ気ない。大竹昭子が『彼らが写真を手にした切実さを 《日本写真》の50年』(平凡社)であきらかにしたように、ほかの同世代の写真家たち(森山大道や中平卓馬や荒木経惟)とは一線を画するポジションに篠山紀信はいる。篠山本人が一線を画したいと言っているので、これはもう戦略的なものだ。大竹昭子のインタビュー依頼に対しても、過去の話はしない、現在の話だけをすると突っぱねているし。篠山紀信は一貫して「批評的なもの」を拒否しているように見えるが、この点が彼を特異な写真家にしていると思う。これだけのキャリアを重ねていれば、批評的言説を呼び込む「欲」が出てきてもおかしくない気がするのだが、どこまでも大衆側に寄り添うスタンスを崩さない。展覧会の最後に掲げられたその場での思いつきで寄せたようなコメントを読んでも故意にやってると思う、この人は。禁欲的との言葉が浮かんでくる。でも彼の撮っているものを見ると、貪欲との形容のほうがよほど相応しいには違いないのだが。あと、今回の展示はポートレイトだらけだが、篠山紀信はやはり人間を撮っている写真が抜群によくて、被写体が人間以外だといまいちパンチが足りないというか、たとえば2007年に九段南のイタリア文化会館でルキーノ・ヴィスコンテの別荘などの風景写真を見たときにも同様のこと、やはりこの写真家の被写体は人間に限る、を感じたのだった。

新宿のUNITED ARROWSでシャツを買って帰ると、世間は選挙結果で喧しい。