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Monday, December 3

漢字や熟語の意味ひとつひとつにまで執着しながら漱石の『こころ』を精緻に読み込むという、受講する学生がどんどん減ってゆくらしい演習を堀江敏幸が大学でやっていることは、最新号の『ku:nel』で確認できる。先日ビックカメラで購入したキンドルをつかって、その授業を真似るかのように『三四郎』を一文字ずつゆっくりと読んでいるのだが(もっとも堀江敏幸は電子書籍端末など使わないだろうけれど)、遅読に遅読を重ねているものだから、美禰子が三四郎の前に白い花を落としたあたりで小休止状態。

いまキンドルをつかっての古典作品の渉猟に励んでいる発端というのがいちおうはあって、みずからを実験台として、電子書籍端末が身体性をいかように変化させるかを試してみたかったから。紙の束の「書物」を手にしたときの物質的な恍惚感を放棄しようなんてことは思ってなくて、あくまで実験。身体にとって書物とは何か、書物にとって身体とは何か。そんな感じの単純な疑問。

池澤夏樹が編纂した『本は、これから』(岩波新書)のなかで内田樹が書いている話に、電子書籍が登場しようが紙の本が消えることはないと彼は断言していて、理由は「自分が全体のどの部分を読んでいるかを鳥瞰的に絶えず点検することは読書する場合に必須の作業」なのだと。でも電子書籍ではこれができない。電子書籍は自分が本のどのあたりを読んでいるのか身体的に認知できない。指先での感知する残りのページ数と、読書の悦楽とは決定的な繋がりをもっているのであり、電子書籍端末の画面に残ページ数が表示されようとも紙の代替にはならない、というのが内田樹の紙擁護論。言いたいことはとてもよくわかる。が、それはたんに訓練を積んでいないだけだという気もする。はじめから平面的な電子端末ばかりで読む体験をたっぷり享受することになるだろう未来の人びとは、読書に指先での感知とはべつの愉悦を見出すのではないか。それを解き明かすための「実験」なのだが、もうだいぶ紙の海原にどっぷり嵌ってしまっている人間(=私)が実験台として機能するのかどうか、はたして。そういえば20世紀の終わりに『文學界』あたりでワープロ論争なんていう今となっては埃の被ったような議論があったけど、記憶に残っているのはワープロで書くことをやめた作家たちにむかっての宮沢章夫のコメント。コンピュータで書くことの修行がみんな足りないんじゃないか、と。電子書籍を読むのにも、きっと修行がいる。

夜、食卓に並んだのは蛤のパスタと赤ワイン。

Tuesday, December 4

電子書籍の話題になると思い出すのは『書物の変 グーグルベルグの時代』(港千尋/著、せりか書房)でも言及されていた、2009年の夏にアメリカで起きた出来事。キンドルで購入した小説がユーザーの端末から突如一斉に消えてしまったという「事件」で、作家の著作権が切れていると勘違いしたアマゾン側のミスで慌てて取り下げたというのが事の真相なのだが、当の小説がよりによってジョージ・オーウェルの『1984年』というあまりに「できすぎた話」だったので注目を浴びるニュースとなった。

本を返品するのは、ふつうは「読者」なのだが、電子書籍端末の場合は、「端末のユーザー」なのである。その誰かが購入した本が一方的に削除されるのは、たしかにジョージ・オーウェルが描いた未来のように不気味であり、これを巨大企業による資本主義的管理の一例として批判することはたやすい。

と述べたうえで、港千尋はつぎのように書いている。

だが、それ以前にこの「ユーザー」は、オーウェルの著作を「持っていた」と言えるのだろうか。さらに言えば一方的に削除されるような本は、はたして「本」なのだろうか。仮にそうと認めたとしても、それはモノとしての本ではなく、あえて言えば「状態」としての本であろう。電子ペーパーによって表示されている状態では手の中にあるが、ひとたびサーバーから削除されれば存在しない。その場合、はたして読書とは、本の「ユーザー」としての経験だろうか。仮にすべての本を電子書籍端末で読むことになる時代に、ユーザーはそれ以前の読者とは、どう違うのだろうか。

ダイニングのテーブルに置かれたキンドル。あれは本か? と問われると困る。キンドルはキンドルだとしか言いようがない気がする。これは本です。これはペンです。これはキンドルです。

Wednesday, December 5

ここ数年、本の読み方がだいぶ荒くなっている。あり余る時間のあった学生時代、図書館の机に自身の知的膂力ではまだ背伸びかもしれない本を並べてしばし読み耽り、疲れたら天井を虚空を仰ぐように見つめていた絶望的なまでに孤独な読書。しかしあれはあれで極上の体験だったかもしれないと来し方を振り返って感じるのは、そんな読書体験はもう二度とないだろうと思うから。とまあ、さしあたり戻ってこない青春の感傷などは放置するとして、一字一句丁寧にテキストを読むことであれば大人になってからでも遅くはあるまいと思って、読書会というか、私的ゼミというか、そんな類いのものを夕食後に実施することにした。初回のテキストはヴァルター・ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」。用意した日本語訳は晶文社から出ていた著作集と、筑摩書房のベンヤミン・コレクション所収のふたつ。前者は第一稿で、後者は第二稿。解説によれば全部で三つの稿があるらしいが、冒頭のエピグラフが第一稿ではヴァレリーの『芸術論集』から引かれているけれど、第二稿ではド・デュラス夫人(フランスの作家)のアフォリズムからだったりと、これまで見落としまくっていたことにいろいろ気づいて面白い。日本語訳だけでは心許ないので横文字を用意したいのだが、ドイツ語はできないので原書には手を出せず、フランス語もできないのでクロソフスキーによる翻訳に頼るわけにもいかず、英訳をプリントアウトしたものをならべて机に置く。ベンヤミンは冒頭でマルクスの資本制生産様式だとか上部構造/下部構造だとかについて論じているのでそれらの話が中心になるのだが、上部構造なんて言葉、口にするのは10年ぶりくらいかもしれない。途中から精読なんだか雑談なんだかわからなくなってきて、「創造性や天才性、永遠の価値や秘密」と書かれた箇所に反応してロマン主義の話題に足が向き、「ロマンティック」といったときイギリスとフランスでは文化的意味合いがぜんぜん違っていることを北山晴一が『high fashion』に書いていたはず、と記憶を辿ってネットでバックナンバーを調べたら2006年4月号。短いエッセイの題名は「ロマンティックとピュアネス」。マルクスを論じていたはずが今はなき文化出版局のファッション雑誌に着地した。それにしてもこの私的ゼミ、ベンヤミンを精読するにあたって合う飲みものは赤ワインか白ワインかビールかをまず考えるという、邪道極まりないスタンス。

Friday, December 7

夕刻、メゾンエルメスに行ったら直前に強い地震があったらしく(舗道を闊歩していたのでまったく気づかず)、エレベーターが止まっている。点検していますのでしばらくお待ちくださいとエレベーター傍の座席に座るよう店員に促され、8階のギャラリーでやっている杉本博司だけが目当てでやってきた者としては、丁重な扱いにちょっと恐縮。ギンザグラフィックギャラリー、資生堂ギャラリーをめぐり(『花椿』入手も本日の目的)、銀座で焼鳥。

Saturday, December 8

正午すぎに原宿駅で降り、キャットストリートをしばらく歩いてAnnon Cookでランチ。来た道をまた戻ってふたたび表参道に出て、ルイ・ヴィトンのギャラリー。ガラス張りの室内で冬の太陽の光を浴びながらエルネスト・ネトの作品を鑑賞。OMOTESANDO KOFFEEでコーヒーと菓子の小休憩ののち、ときの忘れものでジョナス・メカス、RAT HOLE GALLERYでモニカ・ボンヴィチーニ、Paul Smith SPACE Galleryで立木義浩の展示をそれぞれ遊覧。青山ブックセンターに立ち寄って、岸本佐知子『なんらかの事情』(筑摩書房)、よしながふみ『きのう何食べた?』(講談社)、『KINFOLK』、葛西薫のカレンダーを買って帰る。

Sunday, December 9

衆議院議員総選挙を前にして自由民主党の呈示する憲法草案は立憲主義の否定だと「心ある」人びとが異議を唱えていることを知るのだが、人が権利を享受するには義務を負わなければならないといった俗情と結託したような思考をする人たちにどれほど立憲主義が説得力をもつかは疑わしい。長谷部恭男に倣えば、「立憲主義は人の本性に反する」(『憲法とは何か』)のだから。近代ヨーロッパで生まれた立憲主義の意義を理解するには、それなりの「お勉強」を積まないとあまりピンとこないのが普通であると思うし、ふたたび長谷部恭男に倣えば、「で、この近代世界に生きることに嫌気がさして、憲法を変えると何とかなるのではないか、時代劇の描く昔の時代がそうであったらしいように、人々が一つの価値観・世界観にもとづいて生きる「分かりやすい」世界が実現できるのではないかとの夢を抱く人がいても、それが現実的な企てかどうかは別として、これまたさして不思議ではない」となる。

改憲/護憲論議にはキャッチーな要素があるので人びとは熱心に議論を繰り広げるのだが、幸か不幸か、憲法の文言を変えたところで現実世界はそうどうこうなるものではない。改憲にせよ護憲にせよ、まず憲法が問題であり憲法のことを考える必要があり憲法をなんとかしようと喧しい人びとは、何か重要なことを言っているようで、実は面倒な話を先送りにしているだけの可能性があるのであまり信用に値しないのではなかろうか。

みたび長谷部恭男に倣えば、

憲法がなぜ、通常の法律よりも変えにくくなっているかといえば、意味のないことや危なっかしいことで憲法をいじくるのはやめて、通常の立法プロセスで解決できる問題に政治のエネルギーを集中させるためである。不毛な憲法改正運動に無駄なエネルギーを注ぐのはやめて、関係する諸団体や諸官庁の利害の調整という、憲法改正論議より面倒で面白くないかも知れないが、より社会の利益に直結する問題の解決に、政治家の方々が時間とコストをかけるようにと、憲法はわざわざ改正が難しくなっている。あたかも、憲法の文言を変えること自体に意味があるかのような振りをするのはやめて、文言を変えたその結果はどうなるのか、というあまり面白くはないが、肝心な問題に注意を向けるべきときが、そろそろきているように思われる。

しかし、往々にして肝心な問題は誰も手をつけたがらない。