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Monday, September 17

新潮文庫を「あ行」から読むという無鉄砲な試みをはじめてはみたものの、有島武郎の『或る女』のぶ厚さを前にして、新潮文庫全制覇の計画をあっさりと撤回した者ははたしてどくらいの数いるものだろうか。似たようなやや無謀な挑戦を詩というジャンルにおいて実践したことがあって、思潮社の現代詩文庫を最初からすべて読んでみようと意気込んでみたけれども、蓋をあけてみれば、はじめの田村隆一の巻だけをじっくり読んだままあえなく頓挫した過去の苦い記憶があるので、先日ある方から「私家版詞華集」とでも呼べるような嬉しい贈りものを頂戴し、早速そのアンソロジーを繙いてみたところ冒頭を飾るのが田村隆一の「帰途」というのは、なにかの因果を感じずにはいられない。いよいよ詩の世界へ足を踏み入れる時がきたのだと促されたような気がして、詩撰に収められた詩人の名前を逐一メモしつつ、読書の時間をたっぷり設けた祝日の本日は、さしあたり詩との対峙を回避して広義の散文を耽読していた。

『LAヴァイス』(トマス・ピンチョン/著、栩木玲子+佐藤良明/訳、新潮社)
『晰子の君の諸問題』(佐々木中/著、河出書房新社)
『意味の変容・マンダラ紀行』(森敦/著、講談社文芸文庫)
『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』(会田由/訳、岩波文庫)
『オーケストラ再入門 シンフォニーから雅楽、ガムラン、YMOまで』(小沼純一/著、平凡社新書)

Thursday, September 20

数日かけて『ベルリン・アレクサンダー広場』(アルフレート・デーブリーン/著、早崎守俊/訳、河出書房新社)を読み終える。

『クウネル』(マガジンハウス)の最新号に鴻巣友季子のインタビューが載っていて、柳瀬尚紀に師事していたのは知っていたけれどかつて運転手をやっていたのは知らなかった。

ルイス・キャロルやジェイムズ・ジョイスの翻訳をなさっていた柳瀬尚紀さんに、『弟子は取らない』と言われたのをなんとか頼み込んで運転手にしてもらいました。たけし軍団みたいですが(笑)、本当に運転してたんですよ。その合間に訳文を見ていただくんですが、だいたいフリスビー(投げ返される)状態で。

夜、白米、人参と葱の味噌汁、醤油バターコーン、鮎の塩焼き、檸檬、冷や奴とキムチ、野沢菜、ヱビスビール。

Friday, September 21

『ベルリン・アレクサンダー広場』で旧約聖書の「ヨブ記」についての言及がふんだんにされているので、本棚に眠っている新共同訳聖書を引っぱり出して「ヨブ記」をぱらぱらとつまみ読みしていた晩の翌朝、起きあがれないほどの激痛が背中を走り、身悶えながら病院に駆け込む。周知のとおり、ヨブがそうであるように私も「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」からして、おそらくは主がサタンに私の背中に痛みが生じるよう命じたにちがいない。

Saturday, September 22

インターネットにおいてこちらは先方の名前を知っているが向こうはこちらの名前を知らない(ただし、ハンドルなどのネットワーク上での別名は知っているかもしれない)場合、相手にどういう風にじぶんのことを紹介すればよいのだろうか。古民家を利用した神楽坂の食事処カドで焼き魚定食(鯛の風干し焼き)を食したのち、ミヅマアートギャラリーに向かうものの祝日で閉じていたので、信濃町に移動してTHE TOKYO ART BOOK FAIRを訪れた際にそのような事態に遭遇したのだった。そもそも第一声、何と名乗ったらよいのかという問題である。じぶんの本名を述べたところで相手に伝わる可能性は低い。たとえばツイッターをやっていたとしたら、アカウントを口にすることになるだろう。こんにちは、○○です。ツイッターをやっている人は、○○に自身のアカウントを入れて声に出してもらいたい。あまりの滑稽な状況に身の縮む思いがする。そして私は宮沢章夫のあるエッセイを思い出すのである。

いま大変な事態が進行しているのかもしれない。インターネット上の仮想的な世界と、現実世界との境界が曖昧になっている。しばしば問題にされることだが、さらに深刻化してゆくかもしれないと思ったのは、ある日、私の家に次のような電話があったからだ。電話の向こうの女は妻に用事があった。いきなりこういうのだ。
「ぷりまると申しますが」
これはたいへんな人から電話がかかってきてしまった。
(『青空の方法』朝日文庫)

さすがに「ぷりまる」はいかがなものかと思うが、しかしながらみずからのアカウントの名称と比較して、じぶんの方が「ぷりまる」よりましであるなどと優位に立てるものでもない。じぶんのアカウントがまずい感じから逃れられているとはまるで思えないからである。もっともここでインターネットで喧々諤々の論議がくり返されてきた実名/匿名論争に参戦しようなどという目論見はない。ただただあまりの滑稽な状況をあらためて確認しながらじっくりと噛みしめたいだけである。宮沢章夫のエッセイはつぎのように終わる。

「ピエロと申しますが、茶坊主さんはいらっしゃいますか」
ピエロから電話をもらうのも問題だが、家のなかに茶坊主がいるとしたらさらに深刻だ。
これからの時代、万が一に備えて、仮想世界で家族がどんな変名を使っているか確認する必要がある。そして、母がこう名乗ったとしたらどうすればいいだろう。
「わたし、ドロシーよ」
家庭は崩壊する。

Sunday, September 23

ミケランジェロ・アントニオーニの映画を見た翌日の朝はアンニュイな気分。昨夜見たのは、ガブリエル・フェルゼッティとモニカ・ヴィッティによる「愛の不毛」合戦、『情事』(1960年、イタリア/フランス)。
きのう立ち寄ったTOKYO ART BOOK FAIRは催しの内容をよく理解しないまま訪れたので、すべてがZINEばかりで埋め尽くされているのかと思ったら出版社も参加しているのを知り、青幻舎のブースで値引きに釣られて畠山直哉の写真集と町田久美の画集を買ってしまうというとんだ出費。写真集と画集と一冊購入したZINE(『泡箱』)をならべて、雨降る日曜日は部屋に籠ってページをめくる。

夜、茅場町にある森岡書店の店主の著した『写真集』(森岡督行/著、平野太呂/写真、平凡社)を読んだら、書店開業までの慌ただしい日々を綴ったエッセイが素晴らしくおもしろい。