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Monday, January 23

オーストリアの作家カール・クラウスの書いたものにふれたくなったのは、去年みすず書房から新版として刊行された高橋悠治の本(『カフカ・夜の時間 メモ・ランダム』)を読んだのがきっかけ。法政大学出版局から出ている著作集を図書館で取り寄せようとしたものの、全十巻あるという著作集について調べてみると五巻から十巻までは揃っているのだが一巻から四巻までが見あたらず。どうやら出版が途中で頓挫したらしい。ウィーン世紀末文化を代表する作家と位置づけられているのにと不憫に思いつつ『カール・クラウス著作集5 アフォリズム』(池内紀/編訳)を読む。カール・クラウスの箴言集。そもそも高橋悠治の本にある

ぼくからこぼれる夜の時間
考えくらべ、測る間もなく
この夜はもう終わりに近い
鳥が外で朝を告げる

とはじまる「夜の時間」と題された詩に惹かれて読みはじめたクラウスだが、いきなりこうくるのだった。

女の肉感は男の精神が浴する温泉である。

なんだこれ。

裸体はエロティシズムではない。ひとえに視力検査の問題である。身につけるものが少ないほどに、官能は失せる。

なんだこれ。セルジュ・ゲンズブールbotを髣髴とさせる。

ポルノグラフィとは生殖器のクローズアップ、エロチシズムとは暗示作用。

こちらはセルジュ・ゲンズブールbot。

私は女が好きなのではない。ただ男が嫌いなだけだ。

こちらはカール・クラウス。

夜ごはん、白米、葱の味噌汁、秋刀魚の塩焼き、大根おろし、ひじきの煮物。

Tuesday, January 24

『「ぐずぐず」の理由』(鷲田清一/著、角川選書)。書名と装幀からおなじ著者の『死なないでいる理由』(小学館)のようなものをなんとなく想像したのだが、ページをめくってみたら、“ぐずぐず”のほか、ぎりぎり、ちぐはぐ、ゆらゆら、ふわふわ、ほっこり、ぼろぼろ、なよなよ、にやにや、ねちゃねちゃ、などなどオノマトペについて書かれた小論だった。ところで、広く一般には身体論やファッション論で知られているかもしれない鷲田清一だが、このあいだファッションにおける批評の確立を志向する『ファッションは語りはじめた 現代日本のファッション批評』(西谷真理子/編、フィルムアート社)を読んでいたら、ファッションについて鷲田清一のかつて書いていたことが現代の文脈では通用しなくなっているという主張が散見された。なるほど事実としてソーシャルネットワークが興隆する社会において、鷲田清一のかつて綴った身体論が現状分析としてうまく使えなくなっているのはその通りだと思うけれど、批評の対象であるとか方法論であるとかが熱心に議論されている『ファッションは語りはじめた』を読みながら、どうしても「文体」の問題が気になってしまって、というのも『ファッションは語りはじめた』に寄稿している誰よりも鷲田清一のほうが圧倒的に文章がうまい。たとえば『「ぐずぐず」の理由』からやや長くなってしまうのを厭わず引いてみれば、

なにかを見つめるためには、それ以外のものは背後か周辺に退かなければならない。何かにフォーカスするときには、それ以外のものは背景とならねばならない。焦点と背景、中心と周縁という構造である。その背景、その周縁は、自明のものとして、つぶさに眼をやることもない、なじみの安定した相貌をなしているのでなければならない。それは知覚の地もしくは地平とでもいうべきものであって、世界とはそのような地、そのような地平が折り重なったものである。安定したそのような地、そのような地平がつねにあるからこそ、ひとは異例の、微細な変化に、すばやく眼をやることができる。
唐突なようであるが、ファッションは、そうした安定から浮き上がる不安定という構図をもっとも巧みに活かしたいとなみである。多くのひとがあたりまえのように着ている服、そこにやや異例の要素を挿入することで、そのひとのイメージをわずかにぶれさせる。このぶれによって、他人のまなざしを誘うのだ。このぶれが一貫したシリーズをなしているとき、それがニュー・モードとなる。ファッションデザイナーは、このぶれの一貫したシリーズを創出するひとのことである。そしてそこに提示された方向へと多くのひとが衣服を少しずつ買い替えてゆくとき、デザイナーは流行デザイナーとなる。(pp.38-39)

であるとか。批評という領域は、魅力的な文体をもつ者の登場をずっと待っている。

夜、まっすぐ帰宅せず渋谷に寄り道。牛たんのねぎしで食事ののち、ユーロスペースでレイトショー。『国境の町』(ボリス・バルネット監督、1933年、旧ソ連)。午前零時前に帰宅し、ビールを一杯。

Wednesday, January 25

有給休暇。そういえば鷲田清一っていまでも大阪大学の総長? と確認してみたら任期満了にともない昨年退任していたことが判明するのだが、調べながら付随して目に入ってきた情報は、鷲田清一がメルロ=ポンティにちなんでじぶんの息子の名前を「めるろ」と名づけたという話で、鷲田清一ってそういう人だったの? という幾許かの驚きと、現在子息は金沢21世紀美術館の学芸員として活躍しているのを知って、ちょっとホッとしたというか、いや、なんで私がホッとしなくちゃならないのか。

夜の食卓は牛肉と人参とほうれん草のクリームシチュー、サラダ、赤ワイン。『ーーーーー』(福永信/著、河出書房新社)を読む。おもしろい、のだが、後半、その形式にちょっと飽きる。

Thursday, January 26

『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』(東浩紀/著、講談社)を読む。ソーシャル・ネットワーキング・サービスが広く普及した環境下においてジャン=ジャック・ルソーを新たな文脈で読み直そうとする試み。東浩紀自身が冒頭に「本書はじつにわかりやすい本である」と記しているが、そのとおり大変わかりやすく、

ルソーは、個人の自由を訴えた思想家だった。しかし彼はまた同時に、個人と国家の絶対的な融合を主張した思想家でもあった。この二つの特徴は、常識的に考えてまったく両立しない。
この矛盾に関しては、思想史的にさまざまな検討が重ねられてきた。筆者はそれら解釈の積み重ねを否定するつもりはない。しかし、前章で予告したように、本書ではまた別の角度からルソーを読んでみたいと思う。現在の情報環境に照らしてみると、彼のその「矛盾」は矛盾でもなんでもない、単純に技術的に乗り越えるべき政策課題のようにすら見える——未来社会の夢を語るにあたり、筆者が示したいのはそのような視点の変更の可能性だ。(p.35)

あたりで、全部で二五〇ページあまりある本書の内容が大体のところ想像できてしまうくらいわかりやすい。しかし終盤のリチャード・ローティやロバート・ノージックの思想にふれながら来るべき国家像を描くあたりは、もう一冊べつの本としてまとめるくらいの分量を用意すべきではないか、と思う。

夕餉は白米、葱の味噌汁、冷奴、キムチ、秋刀魚の塩焼き、大根おろし、野沢菜。

Friday, January 27

東浩紀って誰かに似てるなあ誰だっただろうと頭の片隅に邪念を抱えつつ『デスマスク』(岡田温司/著、岩波新書)を読んでいたらジャック=ルイ・ダヴィッドの描いたナポレオンに似ていることが判明する。夜ごはん、牛肉と葱と人参とコーンをのせた味噌ラーメン。

Saturday, January 28

隈研吾の手で数年前に改装された根津美術館にはじめて訪れる。「百椿図 椿をめぐる文雅の世界」展を鑑賞、館内のカフェでハンバーグステーキ、パン、コーヒーをたいらげたあと、庭を散策。表参道から六本木に移動し、国立新美術館で「未来を担う美術家たち DOMANI・明日展」。ミッドタウンに移動し、おしるこ休憩ののち渋谷に移動。文化村ちかくのDexee Dinerでピザとコロナビール。二十一時すぎ、ユーロスペースでレイトショー。『青い青い海』(ボリス・バルネット監督、1935年、旧ソ連)を鑑賞。

Sunday, January 29

レイトショー疲れ。夕方、食料品と日用品の買い出しで外出する以外は、終日部屋で『全身翻訳家』(鴻巣友季子/著、ちくま文庫)と『装苑』三月号(文化出版局)を読む。