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Monday, October 31

きょうの読書は『みすず』(みすず書房)連載の植田実「住まいの手帖」で紹介されていたのを経由して、『中野本町の家』(住まいの図書館出版局)。家に帰ると郵便受けに『一冊の本』(朝日新聞出版)が。十一号は巻頭に吉岡斉の文章が掲載されていて、十年あまり前に上梓された『原子力の社会史 その日本的展開』の当時の反応に関して

原子力問題について一定の予備知識をもつ読者からは高い評価を受けたが、やや専門書的な内容であったためか売れ行きは今一つ振るわず

とあるのだけれど、原子力問題について一定の予備知識なんてまるでもたない私が刊行時にどうして読んだのでしょうと記憶を辿ってみれば、あれはたしか米本昌平が朝日新聞の論壇時評でふれていたのが契機だったはずだが、それにしても「売れない」ものをぎゅっと掴んでしまうじぶんのなんだかよくわからない能力を自嘲しつつ、それはそうと現在進行形で話題となっているであろう新版の『原子力の社会史』はいまだ手にとっていない。今回の『一冊の本』はおそらく意図せざる結果だろうが、冒頭に吉岡斉の

筆者の基本的見解は、あらゆる原子力事業の全面肯定とも、全面否定とも異なる。原子力論争では、全面肯定論と全面否定論とが、あたかも東西冷戦のように両陣営に分かれて対立を続け、議論が平行線をたどる傾向があった。筆者はそれを少しでも改めようと90年代後半から模索をつづけ、脱原発を終着駅としつつも当面は原子力事業の全否定と全肯定の中間に陣取るようになり、現在に至っている。また筆者は原子力関係者の行動について、「方法論的性善説」の立場から描くように心がけてきた。原子力に批判的な立場から書かれた著作の多くは、原子力関係者(個人、組織)の行動のなかにある邪悪な性質(悪意、偏見、策略、尊大、金銭欲など)を告発する傾向があった。しかしそれを禁欲しなければ、原子力関係者を含む幅広い読者から無用の感情的反発を受ける危険がある。

との叙述があり、うしろに載っている橋本治の連載では

「絶対反対」を言う人は、「妥協点を探す」ということをしない。それをしたら「負け」だと思っているから、議論とか対話を「する」と言っても、根本のところでこれを拒絶している。なにしろ「説得される」はイコール「負け」なんだから、妥協しないように、「私の言うことを聞け!」ばかりを繰り返す。「公権力」とかそれに近いような「大きなところ」はそれが分かっているから、説得なんかしない。「初めに結論ありき」で、「説得」の代わりに「説明」がある。ある程度の時間「説明」をして、「説明をされる側」の言うこともある程度聞いて、その上で初めの「結論」をほぼ修正なしに採択してしまう。その点で、「初めに結論ありき」で不動の絶対賛成派もまた、説得をするのは不可能である。だから、よその国では知らないが、日本での議論は、「絶対に説得なんかされない」と思っている賛成と反対の二派が激しくやり合うものになってしまう。

という謀ったような編集構成になっている。しかしながらこれらの悧巧な意見に挟まれて二木信の原稿が

経済学者や心理学者といった肩書きの一部の人々からは、反原発デモは頭の悪い貧乏人のお遊びだというような揶揄をされたこともあったが、それで結構だと思う。状況を傍観し、原発という前時代の富の象徴にしがみつくみっともない真似を私たちはしたくなかった。いや、しかし、土地を奪われ、町を奪われ、命を奪われ、平穏な生活を破壊されても、日本経済や国際競争力というおためごかしに踊らされてしまう社会を許してきたのも、また私たちだった。

なのはちょっとばかり呆れてしまうというか、「それで結構」じゃまずかろうと思うし、というより、「日本経済」や「国際競争力」というたんなる語彙でしかないもので「踊らされてしまう社会」って一体何の話をしているのだろうと不思議で、少なくとも私が「私たち」のなかに括られるのは御勘弁願いたい次第である。

夜ごはん、白米、小松菜の味噌汁、秋刀魚、大根おろし、エビスビール。

Tuesday, November 1

ジョナス・メカス『メカスの難民日記』(飯村昭子訳、みすず書房)を読む。反ナチ活動により強制収容所に送られ、戦後、ソ連領となった故国のリトアニアに戻ることを諦めてドイツの難民収容施設を点々とするジョナス・メカスだが、ある収容所の入口で憲兵に止められたときのエピソードがすごい。

ヴィースバーデンに着いたとき、私たちは収容所の門で止められた。MPがやってきて私たちを上から下まで見まわし、他の検査人を呼んだ。「よく見てくれ」と彼は言った。「このスーツケースとバッグの中身を調べてくれ」
バッグを一つ開いた。――本ばかり。もう一つのバッグ。本ばかり……スーツケースも全部開いた。――さらに多くの本。
彼らは頭を振っている。狐につままれている。
「持ち物はどこにあるんだ」、一人が訊ねる。
「持ち物はないです」と、私たち。
本を指さし、これが持ち物ですと言う。
彼らは気違いを見るような目で私たちを見、また頭を振る。
「オーケー、入れろ」と、MPが言う。

夜ごはん、葱、茹で玉子、コーン、ハム、海苔をのせた醤油ラーメン、エビスビール。『秋立ちぬ』(成瀬巳喜男監督、1960年、日本)を鑑賞。

Wednesday, November 2

ケイティ・ハフナー『グレン・グールドのピアノ』(鈴木圭介訳、筑摩書房)。グールドが愛用したピアノ(スタインウェイCD318)をめぐるドキュメント。訳者あとがきに、グールドの右腕として活躍した盲目の調律師エドクィストについてふれながら、

無知を告白すれば、筆者は欧米では盲人が調律の世界で重要な役割を果たしてきたことを、この本を読むまでは知らなかった。

とあって、私も訳書を読むまではそんなことは知らなかった。夜ごはん、白米と胡麻塩、鰆、赤パプリカ、小松菜のフライパン焼き、南瓜のレモン煮、白ワイン。

Thursday, November 3

文化の日。鎌倉にて。スターバックス御成町店で休憩ののち、東急ストアで赤ワインと唐揚げとサラダを買い、KIBIYAベーカリーはお休みのためパンを買えず、LONG TRACK FOODSでピクルスとスコーンとチョコレートブラウニーを買って、由比ケ浜海岸でピクニック。ピクニック完遂後、鶴岡八幡宮まで足をのばして神奈川県立近代美術館鎌倉館で「シャルロット・ペリアンと日本」展を鑑賞。帰宅前にSONG BE CAFEで休憩。行き帰りの横須賀線で川口葉子『東京の喫茶店 琥珀色のしずく77滴』(実業之日本社)を読む。以前『コーヒー「こつ」の科学 コーヒーを正しく知るために』(柴田書店)を書いた石脇智広が川口葉子にインタビューされた際、川口葉子をおしゃれなカフェ専門の人だと思っていたらじぶんの挙げる数々のマニアックな店をぜんぶ知っていて驚いたとウェブサイトに書いていた [1]のを思い出す。夜ごはん、レッドカレー。辛い。

Friday, November 4

ジョナス・メカス『メカスの難民日記』(飯村昭子訳、みすず書房)のつづき。夜ごはん、じゃがいもと人参と玉葱のクリームシチュー、サラダ(レタス、トマト、胡瓜、コーン)。『アデルの恋の物語』(フランソワ・トリュフォー監督、1975年、フランス)を鑑賞。トリュフォー映画のあとは山田宏一『フランソワ・トリュフォー映画読本』(平凡社)で復習。ロッセリーニの助監督だったことを質問されてトリュフォーは

1956年から57年にかけてほぼ二年間、ロッセリーニの失業時代に、わたしは彼の助監督でした。わたしは三本のシナリオに協力したけれども、結局どれも映画化されずじまいでした。

と答えるのだが、監督が失業しているときに助監督って、それはなんだ。

Saturday, November 5

午前中、公園を散歩して、買いもの。八百屋、魚屋、花屋。夕方、Annon cookで早めの夕食とデザート。これからユーロスペースでワイズマンの約三時間にわたるドキュメンタリーを鑑賞しようとしているにもかかわらず、こんなほっこりしたカフェでプリンなんて食していてよいものだろうかという疑念が沸きつつ『セントラル・パーク』(フレデリック・ワイズマン監督、1989年、アメリカ)。三時間、飽きるショットなし。ただユーロスペースの、とりわけ私の座った席の空調が、横須賀線のごとく冷房が効きすぎで、凍え死ぬかと思った。設定温度もワイズマンの指定だったら困る。

『メカスの難民日記』(飯村昭子訳、みすず書房)のつづき。

リルケが、なぜいつも、あらゆる場所から、あらゆる町から、あらゆる女から逃げ出したのか、今の私には理解できる。いろいろなものがあまりにも親密になり、離れがたくなると感じだすやいなや、彼は逃げ出すのだった。そうしてまた孤独を取り戻し、自分一人になった。彼は生きているあいだに一〇〇回も離別をした。彼がそうすることができたのは、絶望に陥っていても、いつでも逃げこめる女性がいたからだった。その後何年もたってから、彼の妻になった女性である。
しかし、私の女性、そういう類の女性がいるとすれば、それはリトアニアだ。夢のなかでしか彼女のもとへ逃げこめないのだが。私の孤独は果てしなく、苦痛で、希望がない。

Sunday, November 6

雨模様。午前中読書。絵本『もりのこびとたち』(エルサ・ベスコフ、福音館書店)、未知谷のチェーホフ本『モスクワのトルゥブナヤ広場にて』『谷間で』『泥棒たち』『エゴール少年 大草原の旅』、『みすず』(みすず書房)の11月号。午後雑用。夜ごはん、タンメン。『恋のエチュード』(フランソワ・トリュフォー監督、1971年、フランス)を鑑賞。トリュフォー曰く

「なぜこんなに悲しい映画を撮ってしまったのか、自分でもわからない」(山田宏一『フランソワ・トリュフォー映画読本』)

  1. 石光商事株式会社: コラム []