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Monday, October 17

iTunesの中身を渉猟していたところかつて土曜の午前零時にJ-WAVEで放送していた「THE VOYAGE」のいくつかを発見。三年前、録音していたもの。いちばん好きだった「アラスカ」の回を聴く。ワタリガラス、ハクトウワシ、ハイダ・インディアン、ムース、カリブー、ブラックベア、ノーザンライツ、アラスカ、星野道夫……。セイント・エティエンヌの「My Christmas Prayer」が流れる。

読書、吉見俊哉『大学とは何か』(岩波新書)と内田繁『戦後日本デザイン史』(みすず書房)を途中まで。夜ごはん、白米、葱の味噌汁、生姜の冷や奴、秋刀魚、大根おろし、モルツビール。

Tuesday, October 18

吉見俊哉『大学とは何か』(岩波新書)を読了。十二世紀から十三世紀にかけて中世ヨーロッパに勃興した大学と、フンボルトの主導したベルリン大学のように国民国家との緊密な関係のうえで成立した近代以降の大学とを峻別し、世界史(および日本の大学史)の復習を踏まえつつ、「大学を、所与の教育制度として捉える以前に、知を媒介とする集合的実践が構造化された場として理解すること」で、「「大学」という領域へのメディア論的な介入の試み」がなされる。

シェイクスピアやゲーテから漱石や鷗外、諸々の古典を身につけることは、国民的教養の土壌が提供する地平に向けて自己を成型していくことで、これこそ近代の大学が国民国家から要請されていたことだった。しかし私たちは今日直面しているのは、そのような「大学の理念」の限界、近代的大学のリベラルな知が、複雑に巨大化した専門知の氾濫のなかで、「古典」という以上の価値を見出されなくなってしまった状況である。
このような状況で必要なのは、「古典」や「教養」を復活させるのではない仕方でリベラルな知を追究していくことであるように私には思われる。専門知と対立し、それと隔絶する次元にリベラルアーツを「復興」するのではなく、高度に細分化され、総合的な見通しを失った専門知を結び合わせ、それらに新たな認識の地平を与えることで相対化する、新しいタイプのリベラルアーツへの想像力が必要なのだ。これまであった「リベラルアーツ=教養」概念が、十九世紀以降の国民国家と高等教育の結合により構築された「近代の神話」の一部であることを批判し、むしろそうした「教養」概念には回収されない新しいリベラルアーツを、中世や古代そしてまた複数の文化の過去と未来に開かれた高等教育モデルとして想像していくこと。

軽佻浮薄な知が瀰漫する状況への対抗手段として「教養」の復権を唱えるのはわかりやすいけれど、もはやそういうやり方が機能しなくなっているのは歴然としているわけで、べつの道筋を探究していくべきだという著者の所説はごもっともだと思うけれども、本書には「新しいタイプのリベラルアーツへの想像力」の種が撒かれているように思いつつ、しかしながらこの新書自体が一定の「教養」層を読者対象としている雰囲気もなきにしもあらずというのもあって、そしてなにより「古典」や「教養」なしに「新しいリベラルアーツ」がはたして可能かというのもやっぱり気になったりして、私の未来形のイメージはいまだ縹渺としている。

仕事で宇都宮まで日帰り出張。夜ごはん、白米、小松菜の味噌汁、鶏もも肉とグリーンアスパラガスとパプリカのグリル、粒マスタードと蜂蜜とマヨネーズのソース、蒸し南瓜、蒸し人参。

Wednesday, October 19

内田繁『戦後日本デザイン史』(みすず書房)を読了。戦後日本のデザインの歴史を概観するにあたって、具体的な出来事の記述については門外漢にも交通整理として参考になったけれど、デザインが戦後史の動向と不可分であるゆえに本のなかで著者は社会分析もほどこすことになるのだが、「通史」なんてものはそういうものだと言ってしまうとそうなのかもしれないけれど、あまりに通俗的にすぎるきらいがあって読みながらどうにも躓いてしまう。わかりやすいところでは、

近年でも、角ハイボールは小雪の起用によってハイボールブームになり、金麦の壇れいは、世の男性諸氏に希望を与えた。小雪のいるバー、壇れいの待っている家は現実にはない。しかしそれらは何らかの幻想か刹那的な夢かにつながるイメージなのである。

なんていうのは、うーん、ちょっとなー、とがっかりする叙述で、「希望」という語彙がこれほどまでに浅薄な響きをだしてしまってよいものだろうかと心配になるのだが、それ以外にも本書を締めくくる最後のまとめの文章が

地球環境の破壊的状況は経済の右肩上がりに由来する。物質的豊かさを求める今日の生活態度は地球の持つ能力の限界を超え、一部の報告によると、これらを維持するためには「地球」が六個必要だとも言われている。
さらに地域間の紛争の大きな原因は国益という国家間のエゴも大きいが、地域、民族固有の思想、思考、宗教など、人の生き方の多様性が原因となっている。グローバリゼーションは一見、自由をつくりだしていると思われているが、実際は人々の生き方の多様性を締めつけている。
こうしたことの根本は、リオタールが指摘した「大きな物語の構築」がつくりだしたものだろう。二十一世紀社会で必要とされているのは、人々の生活の多様性の尊重であり、繊細で機知に富んだ生活の実現であり、謙虚な姿勢から生まれる人の融和、「小さな物語」ではないだろうか。デザインとは先に述べたように「人間のためのもの」である。人が幸せに生きるための、自然、社会共同体、そして人間の心の充実であろう。その点を考えるならば、私たちの生活はまだまだ未熟だと言わざるをえない。

と、まるで正月の新聞の社説を読んでいるかのよう。

夜ごはん、醤油ラーメン。ハムともやしと葱をたっぷりのせて。『私のように美しい娘』(フランソワ・トリュフォー監督、1972年、フランス)を鑑賞。山田宏一『フランソワ・トリュフォー映画読本』(平凡社)でおさらい。

Thursday, October 20

千田有紀『日本型近代家族 どこから来てどこへ行くのか』(勁草書房)を読了。論説はとても明晰。逡巡があまりない。

近代家族とは、政治的・経済的単位である私的領域であり、夫が稼ぎ手であり妻が家事に責任をもつという性役割分業が成立しており、ある種の規範のセット――一生に一度の運命のひとと出会って、結婚し、子どもをつくり、添い遂げるというロマンティックラブ、子どもは天使のように愛らしく、母親は子どもを無条件に本能的に愛しているはずという母性、貧しくてもなんでも親密な自分の家族が一番であるという家庭などの神話に彩られた――を伴う家族の形態のことをさす。わたしたちにとって当たり前だと思わされてきたこの家族像にとりあえず「近代家族」という名前をつけて、前近代社会に目をむけるとわたしたちは茫然とするだろう。

と著者は劈頭に書くのだけれど、しかしいまどき近代のフィクション性を暴露する話をうけて「茫然とする」人なんてそんなにいるものなのだろうかと思いつつ、まあもしかしたらそれなりにいるのかもしれないと想像するのだが、著者の主張が明晰すぎるがゆえに煮え切らないものが残るのは、神話解体は解体することそれ自体がいったい何なのかという緊張がないと意地悪に「で?」と言いたくなってしまうからで、どれほど近代という擬制を指摘する手腕があざやかであろうとも、最後には「で?」と突っ込みたくなる衝動に駆られる。とりわけ震災以降、「絆」などというキーワードを導きの糸として「近代家族」というものが無邪気に浮上しているようにうつる状況では、明晰な神話解体をみせられても「で?」と呟かずにはいられない。

夜ごはん、白米、葱の味噌汁、焼き魚(鰯)、トマトとズッキーニのグリル。

Friday, October 21

カルヴィン・トムキンズ『優雅な生活が最高の復讐である』(青山南訳、新潮文庫)をぜんぶ読み、ヴラジーミル・ナボコフ『カメラ・オブスクーラ』(貝澤哉訳、光文社古典新訳文庫)をすこし読む。会社帰りに図書館で本を返して借りて。家に帰ったら別々の図書館から借りたジョナス・メカス『メカスの難民日記』(飯村昭子訳、みすず書房)とジャック・ルーボー『ジャック・ルーボーの極私的東京案内』(田中淳一訳、水声社)が二冊あることに気づく。私の給与明細に記載されている税金のすべては図書館運営につぎ込まれていると妄想的に思い込むことにより現行税制への批判的思考を停止させ、都内の複数の図書館カードを所有して利用するという恩恵を浴しているのだが、ごく稀にではあるもののうっかりおなじ本を別々の図書館で同時期に借りてしまうという事態が発生することもなくはなく、図書館で借りたものだから当然のごとく公共物であるわけで、個人宅に同一の本が二冊もあるというのは震災直後に問題とされた物資の買いだめならぬ書籍の借りだめとでもいうもので、倫理的にあまりよろしくないような気がする。買いだめとおなじように借りだめも本当に必要としている人々に行き渡らない恐れがある。よくない。『メカスの難民日記』と『ジャック・ルーボーの極私的東京案内』を本当に必要としている人が都内にどれほどの数いるのかはまた別の問題だが。

夜ごはん、鶏肉と人参とジャガイモのクリームシチュー、赤ワイン。粋な夜電波。

Saturday, October 22

雨のち曇り。国立近代美術館で「イケムラレイコ/うつりゆくもの」と「レオ・ルビンファイン/傷ついた街」を鑑賞。胃を悪くしてからというもの、すべてのことを胃に結びつけて考えてしまう思考過程が染みついてしまい、イケムラレイコのうつぶせに眠る少女の絵画を眺めながらあの体勢は胃によくないなどということを思う。渋谷に移動し、仔山羊のいる桜丘カフェで昼ごはん。シアターN渋谷で『アンダーグラウンド』(エミール・クストリッツァ監督、1995年、フランス/ドイツ/ハンガリー)を鑑賞。むかし観たときにも思ったが主演の女優は宮沢りえに似ている。ところでシアターNという映画館は「かつてユーロスペースだったところ」だとか「旧ユーロスペース」だとか、過去におなじ場所にあった劇場名で呼ばれるという不憫さを抱えている。

古本屋フライング・ブックスをひやかし。夜ごはん、鶏肉、大根おろし、万能葱、生卵をのせた温かい蕎麦、エビスビール。

Sunday, October 23

東京都庭園美術館で東京都庭園美術館を鑑賞する(館内公開)。写真撮り放題。昼ごはん、Ristorantino Luberoでパスタ。自宅に戻ってから食材と日用品の買いものへ。花屋でスプレーバラを購入したら食卓が一気に華やぐ(当社比)。夜ごはん、白米、葱の味噌汁、豚ひき肉団子、もやし、赤パプリカ、ズッキーニ、万能葱。赤ワインを飲みながら『柔らかい肌』(フランソワ・トリュフォー監督、1964年、フランス)を鑑賞。