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Monday, September 5

寺田寅彦の残したの箴言のひとつ「正しく恐れる」は震災以降のディスクールでしばしば引用されてきたけれど、『寺田寅彦随筆集 第五巻』(岩波文庫)に収められている「小爆発二件」と題された随筆文でその「ネタ元」を確認してみるならば、浅間山が噴火した現場を前にして寺田寅彦は

ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた。

と書くのである。引用してみて気づくのは「恐れる」ではなくて「こわがる」であり、しかも「こわがる」とひらがなで綴られているために「恐がる」なのか「怖がる」なのか判然としないことで、そんな瑣末なことを気にかける必要などないという向きもあろうが、気にせずにはいられないのは掲載された媒体が昭和十年の『文学』であり、最後の最後で寺田寅彦は「文学」の話をしているのであるから、些細なことばの問題にすぎないとして無碍にはできない。引用は、とりわけアフォリズムとして機能してしまうような引用は、前後の文脈が暴力的に切断されてしまうのもなきにしもあらずだけれど、「正当にこわがる」という一節のあと、寺田寅彦の文章はつぎのような意表をつく展開をみせるのである。

○○の○○○○に対するのでも△△の△△△△△に対するのでも、やはりそんな気がする。

なんでしょうこれは。伏字のオンパレードである。「正当にこわがる」よりも「○○の○○○○」のほうが気になってしょうがない。

ところで寺田寅彦はいまやすっかり「現代にもじゅうぶん通用する数々の教訓を残した人」という扱いになっているきらいがあるが、「小爆発二件」をとおして読んでみれば「正当にこわがる」箇所にしても教訓めいたことを言おうとしている印象は薄いし、教訓をたくさん残した人などという狭苦しい領域に押し込めるのはやめて、たとえば

降灰をそっとピンセットの先でしゃくい上げて二十倍の双眼顕微鏡でのぞいて見ると、その一粒一粒の心核には多稜形の岩片があって、その表面には微細な灰粒がたとえて言えば杉の葉のように、あるいはまた霧氷のような形に付着している。それがちょっとつま楊枝の先でさわってもすぐこぼれ落ちるほど柔らかい海綿状の集塊となって心核の表面に付着し被覆しているのである。ただの灰の塊が降るとばかり思っていた自分にはこの事実が珍しく不思議に思われた。灰の微粒と心核の石粒とでは周囲の気流に対する落下速度が著しくちがうから、この両者は空中でたびたび衝突するであろうが、それが再び反発しないでそのまま膠着してこんな形に生長するためには何かそれだけの機巧がなければならない。

というような卓抜な文筆家としての才にふれる愉しみを味わったほうが寺田寅彦も浮かばれるというものだろう。

夜ごはん、チキンレッドカレー、サラダ(グリーンリーフ、トマト、玉葱、オクラ、コーン)。残業のため、遅めの夕餉。

Tuesday, September 6

たとえば本日の朝昼晩の食事を書きならべてみたならば、朝ごはん、バゲット、コーンスープ、梨、珈琲、昼ごはんは持参の弁当で、白米、しらす、卵焼き、蒸した人参、おなじく蒸した南瓜、豚肉とピーマンの炒めもの、ミニトマト、胡麻ダレと和えた鰹のなまり節、夜ごはん、白米、辛子明太子、味噌汁、冬瓜と枝豆に鶏そぼろあんかけ、鯵の干物、冷奴、キムチ、麦酒であり、お昼の弁当における栄養バランスの整いっぷりはなにごとか。

柴崎友香『虹色と幸運』(筑摩書房)を読了。小説の「うまさ」はけっして文章力や物語構成力で決まるわけではないというときの例として挙げる小説家のひとりに柴崎友香をくわえたいのだが、『虹色と幸運』を読んだらよいのかわるいのか技術的にうまくなっている。

ジェリー・オッペンハイマー『Front Row アナ・ウィンター ファッション界に君臨する女王の記録』(川田志津訳、マーブルトロン)。アナ・ウィンター完全非協力によるアナ・ウィンターの評伝。

夜、『ブルース・ブラザーズ』(ジョン・ランディス監督、1980年、アメリカ)を鑑賞。この映画観るの、二年ぶり四度目。

Wednesday, September 7

堀江敏幸『なずな』(集英社)を読む。『雪沼とその周辺』(新潮社)や『河岸忘日抄』(新潮社)のように小説家の言葉がじんわりと読者の体内に染みわたってゆく小説とはちがって、あるいは句点がなかなかやってこないお馴染みの文体を採らない語り口で、そしてなにより堀江敏幸という作家の印象からは遠いところにあるような「育児」の話を中心とした小説であるが、たとえば昼間は喫茶店で夜になると飲み屋になる店のカレーとスパゲッティしかない食事のメニューにふれながら、

スパゲッティはバターと明太子を和えて青じそにレモン汁をたっぷりかけたものとミートソース、カレーはカツカレーとビーフカレーのみだ。珈琲もセットにするとそれだけ飲むよりは割安になる。私はそういうセットメニューについてくるサラダの類を、いつ、どういう間合いで食べるべきか、以前から真剣に悩んできた。食欲をさらに刺激するために先に食べるべきか、味に変化を求めてあいまいに食べるべきか、それとも口直しにあとで食べるべきか。考えるのが面倒だから、そういうものはかえってないほうが助かるような気もするのだった。

という瑣末としか思えないような事柄に「真剣に悩む」主人公の描写であるとか、囲碁と将棋をくらべながら

百三十一手で先手の勝ち、といった将棋の終幕を示す加算された数値とはちがって、囲碁では半目勝ちとか六目勝ちのように、減算からなる差異を示す。投了までの手数が少なければ少ないほど、台風の勢力を示す数値とおなじような破壊力の存在を感じさせるのが将棋だとすれば、終了間近の盤に描かれた細密画の、数と数のぶつかりあいから生まれた隙のあり方が、生成途上にあるふたつの宇宙の境界のように見えるのが囲碁ではないか。接線の箇所に真空の風が舞って、鎌鼬になる。気圧の差が、目に見える。

といういささか大仰とも感じられる比喩で編まれたくだりを読みながら、やはりこれは堀江敏幸の小説であることを確認するのである。

夜ごはん、もやしたくさんの醤油ラーメン、麦酒。

Thursday, September 8

昼休みに会社近くのテラスで読書のできる季節になってきた。マルグリット・ユルスナール『追悼のしおり』(岩崎力訳、白水社)を読む。

夜ごはん、白米、辛子明太子、葱の味噌汁、カジキの味噌づけ、鰯の丸焼き、大根おろし、冬瓜と枝豆に鶏そぼろあんかけ、麦酒。

Friday, September 9

マルグリット・ユルスナール『追悼のしおり』(岩崎力訳、白水社)のつづきと『UP』(東京大学出版会)の9月号を読む。ユルスナールの『世界の迷路』全三巻(そのうちの第一巻が『追悼のしおり』)の最後『何が? 永遠が』の刊行予定を確認してみたならば訳者は堀江敏幸である。堀江敏幸包囲網ふたたび。

夜ごはん、小松菜としめじと鰹のなまりを和えたパスタ、白ワイン。『知りすぎていた男』(アルフレッド・ヒッチコック監督、1955年、アメリカ)を鑑賞。

Saturday, September 10

終日体調不良。

Sunday, September 11

自宅で日曜ロードショー。『暗殺の森』(ベルナルド・ベルトルッチ監督、1970年、イタリア/フランス/西ドイツ)、『白いリボン』(ミヒャエル・ハネケ監督、2009年、オーストリア/ドイツ/フランス/イタリア)、『借りぐらしのアリエッティ』(米林宏昌監督、2010年、日本)。夕方、買いもの。食材と日用品と薔薇の花を買う。夜、宅配ピザを注文。本日は「菊地成孔の粋な夜電波」の放送がないので月夜の照らす夜道を粋な夜散歩とばかりに渋谷へ向かう。ツタヤまでDVD返却のため。粋じゃない。しかしながら渋谷ツタヤのレンタル棚にはアンドレイ・タルコフスキーのDVDがやたらとあって、『惑星ソラリス』が8本もあるのだが8本すべてがレンタル中という異様な状況を確認できたり、その隣に目をやれば「エロティックドラマ」という棚が存在し、「ブロンド美人は過激にエロティック」というマノエル・ド・オリヴェイラの映画『ブロンド少女は過激に美しく』をもじるという誰に訴えかけているのか不明なコピーを掲げたコーナーがあったりと、いくつか収穫あり。