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Tuesday, June 20

キリンチャレンジカップ、日本対ペルー戦をTVerで観る。4-1で日本の勝利。大変良い試合で、昔のことを思うと感心しきり。この感じが維持できれば素晴らしい。

夏至を迎えるこの季節、今年は『島とクジラと女をめぐる断片』(アントニオ・タブッキ、須賀敦子/訳、河出文庫)が気分だった。

一八九一年の九月十一日の朝、彼はデルガダ岬の家を出ると、木陰の道を歩いて聖母教会まで降りて行き、角の小さな武器店に入った。黒い背広を着て、白いワイシャツ、ネクタイは貝殻で留めていた。店の主人は、ふとった慇懃な男で、犬と時代物の版画を愛していた。天井には真鍮の扇風機がゆっくりまわっていた。主人は、手に入れたばかりの、猟犬の群れがシカを追っている場面を描いた十七世紀の版画を客に見せた。老主人は詩人の父親の友人だったので、アンテールは、子供のとき、ふたりに連れられて、サン・ミゲル島でどこよりも美しい馬が集まるカロウラの市に行ったのを憶えていた。ながいこと、犬や馬について主人としゃべったあと、アンテールは銃身の短い小型のピストルを買った。彼が店を出たとき、ちょうど聖母教会の鐘が十一回、鳴った。彼は海岸道路をゆっくり歩いて、かなり長いあいだ、岸壁に立って帆船を眺めていた。それから海岸道路をよこぎって、痩せこけたプラタナスが周囲に植わったスペランサ広場に行った。太陽がぎらぎら照り返していて、すべてが白く見えた。暑い季節だったから、その時間には人ひとり広場にいなかった。みすぼらしいロバが一匹、壁の金輪につながれていて、首を垂れていた。広場をよこぎりながら、アンテールはどこからか音楽が聞こえてくるように思った。立ち止まって振り向くと、向う側の隅のプラタナスの蔭に旅芸人がひとりいて、手回しオルガンを鳴らしていた。旅芸人が手まねきをしたので、アンテールはそちらに歩いて行った。痩せたジプシーだったが、肩にサルを一匹とまらせていた。皮肉な、哀しげな顔をしたチビで、金ボタンのついた赤い軍服を着せられていた。アンテールにはそれが夢に出てくるサルだとわかった。そいつがちっちゃな黒い手を差し出したので、アンテールは小銭を一枚、てのひらにすべりこませてやった。するとそいつは、ジプシー男が帽子のリボンに挟んでいたひと束の色のついた紙の中から、一枚選んで彼に差し出した。彼はそれを手に取って、読んだ。そのあと、もういちど広場を渡って、ひんやりとしたスペランサ修道院の漆喰の表面に青い錨を描いた塀の下にあるベンチにすわった。ピストルをポケットから出すと、彼はそれを口にあて、引き金をひいた。一瞬、まだ広場や樹木や海のきらめきや手回しオルガンを鳴らしているジプシーが見えることに彼は驚いていた。なまあたたかいものが首をつたって流れるのを感じた。彼は、もういちどピストルを作動させると、二度目を撃った。すると、風景といっしょにジプシーが消え、聖母教会の鐘が正午を打ちはじめた。
(「アンテール・デ・ケンタルーーある生涯の物語」p.64-66)

Friday, June 23


『キャサリン・マンスフィールド短編集 郊外のフェアリーテール』(キャサリン・マンスフィールド、西崎憲/編訳、亜紀書房)を読む。どの篇もしっぽをつかもうとするとするりと逃げられてしまうような感触。なので、何度読んでもいい。水辺の土地の描写を偏愛しているので、以下のような一節を読むとすべてを書き写したくなってしまう。

まだ朝は明けきっていない。まだ太陽は昇っていない。クレッセント湾はどこもかしこも、白い海霧に包まれている。湾を囲む、森を頂いた高い丘の連なりも霧に覆われ、丘がどこで終わり、牧場や平屋の小さな家の集落がどこからはじまるのか、見わけることができない。砂の道は見えなかった。その向こう側の厩やバンガローも見えない。さらにそのさきの、赤茶色の草が茂った白い砂丘も見えない。どこが渚かどこが海かを示すものはなにもなかった。膨れあがった重い露が落ちた。草は青々としていた。森の木々の枝にも大きな水滴が垂れさがっているが、そちらはいつまで経っても地面に落ちる気配はない。銀色のふわふわしたトイトイの穂は、長い茎のさきで湿ってだらりとしている。平屋建ての家々の庭に咲く金盞花や石竹は、露の重さに深くうなだれていた。吊り浮き草は隅々まで濡れて冷たい。平たい金蓮花の葉のうえには、真珠のような露が載っていた。それはまるで夜のうちに海がそこまで忍び寄った証のように、大きな波がすべてを浸した証のように見えた。ひたひたとーーいったいどのあたりまで? たぶんあなたが真夜中に眼を覚まして、窓の外を見たら、大きな魚がゆらゆらと泳いでくる姿を、そしてそれがまたどこかへ去ってゆくのを眼にしたことだろう。
(「入江にて」p.234-235)

玄関まえには一握りほどの芝地があって、真ん中にはマヌカの木が立っていた。その木の下のデッキチェアにすわって、リンダ・バーネルはぼんやりと朝の時間をすごしていた。彼女はなにもしていなかった。暗く密に茂ったマヌカの木の乾いた葉叢をただ漠然と見ていた。それに葉の隙間から覗く青を。時折、黄色い花が降ってきた。綺麗だーーもし、あなたが掌で受けて、花をじっくりと眺めてみたら、それがきわめて小さいものであることがわかるだろう。薄い黄色の花片はどれも丁寧に造られた細工物のように見える。花の中央に小さな舌のようなものがあるので花は全体で鐘を連想させる。ひっくり返してみると反対側は濃い青銅色である。花は開くとすぐに散って、地面に散乱する。あなたは喋りながらワンピースから払い落とさなければならない。小さなそのおそろしいものは髪にもくっつく。では、なぜ花があるのだろう? 誰がその面倒な仕事をするのあろうーーあるいはその歓びに満ちた仕事をーー浪費されることになるこうしたものを造ること、無駄なものを……。それは理解を許さない出来事のように見える。
(「入江にて」p.261)

紅い覆輪のある白の石竹が眩しかった。金色の斑がはいった金盞花が煌めきを放つ。ヴェランダの柱に絡みつく金盞花は緑と金の炎だった。これらの花々を見るための時間が十分にとれさえすれば、目新しさと奇妙さを乗り越えてこれらを知るだけの時間がとれさえすればいいのだが。けれど花片を手でわけるために立ちどまった瞬間、葉の裏側を見ようとした瞬間、生活がやってきて人は押し流される。藤の椅子に横たわるリンダは自分が軽いものになったような気がした。木の葉になったような気がした。そして生活が風のようにやってきて、彼女は摑まれ、揺さぶられるのだ。そしていかなければならない。ああ、いつもそうなのだろうか? 逃れる術はないのだろうか?
(「入江にて」p.262)

このたびのマンスフィールド短編集は2002年にちくま文庫から出たものを改稿し、新訳一篇を加えたもので、鈴木千佳子による装丁も本当にチャーミングで今の時代の気分に合っており、遠いところまで来たなあという感慨しきりである。たしか二十代のはじめ頃に読んだと記憶している安藤一郎訳の新潮文庫を本棚から引っ張り出し、訳を比べたりした。ちなみに上記の「生活」を安藤一郎は「人生」と訳している。

Saturday, June 24


朝一番で病院1件済ませ、午後は、目黒に向かう。東京都庭園美術館で「フィンランド・グラスアート 輝きと彩りのモダンデザイン」展を観る。こうした展示はこの美術館ととても相性が良い。今日は少し曇りがちなので、窓から差し込む穏やかな光が室内のガラス作品をやわらかく照らしていた。キャプションに「フィンランドに伝わる神話では、鳥は人の誕生や臨終の際、魂を運ぶ役割を担うとされるため、芸術においても重要なモチーフとなっている」とあった。タピオ・ヴィルッカラが1970年に70歳を迎えるケッコネン大統領に贈ったお皿《氷上の釣り穴》がとてもよかった。大統領が釣りを嗜むことを知っていた上でモチーフを選んだというのもいいし、ああ、これは本当に氷上の釣り穴だなあ、と思えるデザインだった。ちなみにタピオ・ヴィルッカラの妻がルート・ブリュックなのだった。

鑑賞後に美術館併設のCafé TEIENにてケーキとアイスコーヒー。目の前に広がる庭には青い花がふわふわと風に揺れていた。

表参道へ移動する。表参道、渋谷、恵比寿、目黒あたりにいると、ビルのてっぺんすれすれの本当に低いところを飛行機が飛んでいくのを何度も何度も目にすることになる。Gallery Targetで「花井祐介 PebbLes AND RiPPLes」を観る。わたしの好みからするとちょっと毛色が違うように思えるけれど、花井祐介の作品がとても好き。洗練されていて、ユーモアがある。

山陽堂書店をのぞいてから、このたびついに初の路面店がオープンしたルル メリー青山通り店へ。KITTEの店舗が閉店してからというもの、ポップアップはしばしばやってくれていたもののなかなかタイミングが合わず購入できなかったルル メリー、路面店つくってくれて本当にありがとう…。ウキウキとチョコレートやサブレを買い、それぞれ1種類ずつ花の絵が描かれているショップカードを集めた。

渋谷スクランブルスクエアに寄って買い物して帰宅。夜、ローストチキン、ホワイトセロリとグリーンリーフとミニトマトと紫玉葱のサラダ、白ワイン(フランス)。数日遅れだけど、まだ夏至weekなので、Atelier Anniversaryのショートケーキを食べる。

Sunday, June 25




『「かげ(シャイン)」の芸術家 ゲルハルト・リヒターの生政治的アート」(田中純、ワコウ・ワークス・オブ・アート)を読む。

平凡なものが一見したところ慎ましく平凡に描かれていることによって、見る者は「なにかを思い出させられる」とリヒターは言う。だからこそ、「ずっとみていればいるほど、恐ろしくなってくる」のだと。それはシャンデリアという物体が「シャンデリア」とはもはや認識されず、理解不能な何かに変貌することであろう。具象的なフォト・ペインティングはこうして、そこに描かれたものが何かに「似ていること」の自明性を喪失することにより、一種のアブストラクト・ペインティングに反転するのである。
「なにかが静かに近づいてくる、だが聴こえる」というリヒターの表現は、《フランドルの冠》が見る者に感じさせる定かならぬ不穏な何かの「予感」を的確に表わしている。かすかな徴候として感受されるような、聞こえるか聞こえないか、識閾ぎりぎりのかすかな音に似た要素ーー技法的にはぼかしに対応するーーが、リヒターの作品を発展=現像過程のただなかにあるものとしている。それはアナロジー生成の途上にあり続け、何かが起こりつつある「予感」の状態にとどまっているということにほかならない。(p.86)

昨日買ったルル メリーのチョコレートを開ける。可憐な佇まいでとても美味しい。懐かしい味だ。

夜は、ごはん、しらす、豆腐と油揚げの味噌汁、鶏肉の塩麹酒蒸し、大根おろし、小葱、水茄子の浅漬け、ビール。健康的で美味しい夕ご飯。