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Sunday, April 30

『東京画』(ヴィム・ヴェンダース監督、1985年)、『666号室』(ヴィム・ヴェンダース監督、1982年)を観る。

『失われた時を求めて 4 花咲く乙女たちのかげに II』(プルースト、吉川一義訳、岩波文庫)を読み終える。

翌年の五月には、私はパリで何度となく花屋からリンゴの一枝を買ってきて、その花を眺めて夜をすごした。花からはいつも同じふわふわしたクリーム状のエッセンスが拡がってその泡が葉の新芽にふりかかり、花々の白い花冠のあいだには、花屋が気前のよさを私に示そうとしたのか、創意工夫をこらして対照の妙をねらったのか、おまけとして花の両側によく似合うバラ色の蕾をひとつずつ加えたような案配である。私はその花をうち眺めてはランプの明かりの下でポーズをとらせーーあまりにも長いことそうしていたから、しばしば気がつくと夜は明け、この同じ時刻のバルベックでもきっとそうなるように、曙の光がほのかに花を赤く染めていたーー、回想のなかの田舎道にも花を咲かせてその数を増やそうと試み、その輪郭ならそらで知っている農地の囲いという、額縁のなかの用意万端整えられた画布のうえにその花を描きだそうとした。(p.158)

われわれ自身が生涯で何度も変わるようにこの人たちの変貌も何度も目の当たりにしたが、こうしていっときわれわれの習慣を移す鏡になると、その人たちにわれわれ自身のすがたが忠実かつ友好的に映し出されているのを見て安らぎをおぼえるのである。ずいぶん前から会っていない友人たちにも増して愛着をおぼえるのは、この人たちのほうが現在のわれわれのすがたをより多く含んでいるからだ。(p.190)

エルスチールの水彩画で見てからというもの、私がふたたび現実のなかに見出そうと努め、どこかしら詩的なものとして好んだのは、ナイフが斜めに置かれたままで中断された仕草だったり、くしゃくしゃになったナプキンの丸く膨らんだところに陽の光が黄色いビロード片を加えていたり、飲み残しのグラスでは高貴に開いたその口の形がよく見えたり、陽の光が凝縮したように透明なガラス器の底に残るワインが暗くきらめいたりすることや、照明の具合でさまざまに容積が変動したり液体が変質したりすることや、なかば空になったコンポート鉢のなかでプラムが緑から青へ、青から金へと変化することや、古めかしい椅子が日に二度にわたり移動してテーブルクロスのまわりに腰を落ち着けたりすることであり、テーブルクロスが敷いてあるのは、あたかも大食の儀式が執りおこなわれる祭壇を思わせ、クロスの上に置かれた牡蠣の殻の底は、まるで石でできた小さな聖水盤で、そこに浄めの水が数滴残っていたりした。このように私が美を見出そうとしたのは、予想だにしなかったところ、もっとも日常的な事物のなか、つまり「静物」のもつ深い生命のなかであった。(p.488)

第4巻にはフォルチュニ(本の中では“フォルトゥーニ”)の話が出てきたので、2019年に三菱一号館美術館で開催された「マリアノ・フォルチュニ 織りなすデザイン展」の図録を引っ張り出して捲ったりした。