639

Tuesday, January 24

本日、東京で初雪を観測とのこと。

Wednesday, January 25

東京大学出版会・白水社・みすず書房発行の『パブリッシャーズ・レビュー』は2021年に終刊してしまったけれど、そのかわりに(?)白水社が自社の新刊情報やエッセイを収めた無料PR誌『白水社の本棚』を発行していたことを知ったので早速取り寄せて読む。なんと2021年春には創刊していたので、2年も遅れをとってしまった。情弱だ。

表紙のデザインが上品で洒落ていて良い。表紙には重田園江と藤原編集室の名前が! そして三浦亮太の文章があまりに素晴らしくて、でもこの方のことは知らなかったのでググっていろいろ調べてしまった。こういう文章をもっと読みたい。それにしてももうすぐ休刊してしまうみすず書房の『月刊みすず』は、なんとか紙で残せなかったのだろうか。季刊でも全然いいから。webもいいけど、やはり、紙で…、紙で残してほしかった。

Saturday, January 28



東京都現代美術館に、大人気のディオールの展覧会を観に行く。美術館が近づくにつれて長蛇の列が見えてきて暗澹たる気持ちになる。予想はしていたが、あんなに混んでるのか…。しかし、それは当日券購入の列だったらしく、入館してみれば適度な人の密度でホッとする。「クリスチャン・ディオール、 夢のクチュリエ」を鑑賞する。

事前に聞いていたとおり、特に地下の大フロアの使い方が秀逸だった。もちろんそれだけでなく密度の濃い展示物に圧倒された。キャプションもボリュームがありすぎて、わりとキャプションを執拗に読むわたしもすべては読むことができなかった。それくらいパネルも充実していた。歴代のデザイナーの作品が展示されていたが、わたしはやはりラフ・シモンズが好きだな。都会的で現代的で、さらっとしている。服と融合するように絵画作品が展示されているのにも大変ときめいた。まず冒頭でレオノール・フィニの絵が迎えてくれるなんて、なんて嬉しい。切り絵作家の柴田あゆみの手による、藤の花のような切り絵が天井から垂れ下がる「ミス ディオールの庭」では、フラワーモチーフのドレスの合間に田淵安一や牧野虎雄の花の絵が飾られており、花の絵はすべてテキスタイルにしてスカートにしたいわたしにとっては夢のような展示なのであった。高木由利子の写真も大変よかった。総じて素晴らしい展覧会だったと思う。

二階のサンドイッチでランチ。コロッケサンド、鶏のパテのサンドイッチ、珈琲。ディオール展を観に来た人でおおにぎわい。こんなに混雑した二階のサンドイッチは初めてである。あたりを見回すと若い女性たちは皆、サンドイッチを1つしか食べていないようで、わたしたち中年夫婦はいつもひとり2つ以上モリモリ食べるので、笑ってしまった。1つという選択肢はありえないのだが?! 1つで足りる? 食後、展示室に戻って「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」も観て美術館を後にする。

古書店めぐり。しまぶっく、古書ほんの木、古書しいのき堂。初訪問した古書しいのき堂の品揃えが素晴らしくてわくわく。時間をかけて棚を見る。まだ少し体力が残っていたので神保町へ。PASSAGE by ALL REVIEWSと東京堂書店を梯子。PASSAGE by ALL REVIEWSは相変わらず混んでいる。辻邦生の『パリの手記』シリーズ全五巻のうち、自宅の本棚から長らく第四巻、第五巻が欠落していたのだが、なんとここで見つけたので購入。きょうの戦利品は新刊6冊と古本13冊となった。

Sunday, January 29

今年の初めに、今年はプルーストの『失われた時を求めて』を読了しようという目標を立てた。夫はすでに読み終えているので、自宅には岩波文庫が全巻そろっていていつでもオッケーカモン状態だった。わたしもだいぶ年をとり、時間が有限であることをひしひしと感じ入る昨今、このような名作を読まないまま終わるわけにもいかない。読むなら今でしょう。しかしなんせ14巻あるからこればかり読んでいたら飽きてしまうしほかの本が読めない、ということで、ひと月に一巻ずつ読む、そして12か月のうちふた月は2冊読む、という計画にした。

さて本日『失われた時を求めて 1 スワン家のほうへ I』(プルースト、吉川一義訳、岩波文庫)を読了。読んでみてどうだったかというと、なんとこれが、面白かった。まずは文体を楽しむところからはじめよう。

そんなふうに鐘がなるたびに、前の時刻が告げられたのはついさきほどだったと感じられる。空のなかには最後の音が前の音のすぐそばに記されているから、私としては、ふたつの黄金色のしるしのあいだに見える小さな青いアーチのなかに六十分という時間が含まれているとは信じられない。ときには鐘の音が、早まって前よりふたつも余分に鳴ることがあり、そうなると私には前の時刻は聞こえなかったわけで、現実におきたことが私にはおこらなかったことになる。深い眠りと同じく魔術的というほかない読書の興味のせいで、私の耳は錯覚にとらわれ、空色の静寂の表面からいわば黄金色の鐘を消し去っていたのである。コンブレーの庭のマロニエの木陰ですごした日曜の晴れた午後よ、私自身の暮らしの凡庸なできごとを入念にとりのぞき、かわりに清流に洗われた土地での奇妙な冒険と憧れの暮らしを満載してくれた午後よ、お前はいまもなお私にそのときの暮らしを想起させてくれる。それはお前がーー私が本を読みすすめ、昼間の熱気が収まってゆくあいだーーお前の静まりかえり、よく響く、香しくて、澄みきった時間の、継起しつつゆっくりと移り変わり、葉の茂みのよぎるクリスタルのような空のなかに、そのときの暮らしを包みこみ、囲いこんでくれたからである。(p.200-201)

小さな音が窓ガラスにして、なにか当たった気配がしたが、つづいて、ぱらぱらと軽く、まるで砂粒が上の窓から落ちてきたのかと思うと、やがて落下は広がり、ならされ、一定のリズムを帯びて、流れだし、よく響く音楽となり、数えきれない粒があたり一面をおおうと、それは雨だった。(p.230-231)

延々と書き写してしまう。吉川一義の訳者あとがきもにもぐっときた。吉川さんに岩波から翻訳してみないかと打診があったのが1999年、第一巻が刊行されたのが2010年。「これからラストシーンまで無事に訳し終えられたらいい」という旨のことが書かれていて、これほどの小説を翻訳するなんて労苦はいかばかりか、と思うのでリアルタイムで読んでいたらわたしのことだからハラハラドキドキしてしまったはず、リアルタイムで読んでいなくてよかった…! などと思った。

2月は第二巻を読みます。