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Monday, August 24

朝の音楽、Pizzicato One「前夜 ピチカート・ワン・イン・パースン」を聴く。

朝ごはん、目玉焼き、ベーコン、サラダほうれん草とイタリアンドレッシング、ミルクブレッドとクリームチーズ、ヨーグルト、珈琲。昼ごはん、お弁当。晩ごはん、中村屋のビーフハヤシ、トマトとベビーリーフのサラダとイタリアンドレッシング、麦酒。

読書。通勤の行き帰りでヘーゲル『精神現象学』(熊野純彦/訳、ちくま学芸文庫)の下巻を読みはじめ、自宅で村上春樹『1Q84 Book1 後編』(新潮文庫)を読む。

Tuesday, August 25

朝の音楽、Laraaji「Sun Piano」を聴く。

朝ごはん、目玉焼き、ベーコン、サラダほうれん草とイタリアンドレッシング、ミルクブレッドとクリームチーズ、ヨーグルト、珈琲。昼ごはん、お弁当。晩ごはん、蒸し餃子、ほうれん草と卵とわかめの中華風スープ、枝豆、麦酒。

ヘーゲルの『精神現象学』を読んでいる。熊野純彦がその訳文で「結果」と漢字表記するのを避けて「けっか」とひらがなで記すことは以前にも書いた話ではあるが、つぎのくだりには面食らう。

そのけっか各人はつねに〔個々人の意思へと〕分割されることなくいっさいをおこない、その結果また全体のおこないとしてあらわれるものも、各人が直接的に意識しておこなうところとなるのである。

一文のなかに「けっか」と「結果」が共存する表記の揺れがはたして誤植なのか意図的なものなのか判然としないが、どうも後ろにひらがながつづく場合はあえて漢字にしているっぽい。「けっか」と書かれると「かっけ」っぽいので漢字にしてほしいと目につくたびに思うのだけれど、それはそうとヘーゲルが「精神」の章で言わんとしていることがわからない。

Wednesday, August 26

朝の音楽、Roos Jonker & Dean Tippet「Roos Jonker & Dean Tippet」を聴く。

朝ごはん、目玉焼き、ベーコン、サラダほうれん草とイタリアンドレッシング、ミルクブレッドとクリームチーズ、ヨーグルト、珈琲。昼ごはん、お弁当。晩ごはん、ゆで卵と焼豚とほうれん草とブロッコリーをのせた醤油ラーメン、麦酒。

一昨日と昨日は多少なりとも秋の気配を感じなくもない気候であったが、本日はまるで感じられない。暑い。通勤の読書。ヘーゲル『精神現象学』(熊野純彦/訳、ちくま学芸文庫)のつづき。自宅での読書。村上春樹『1Q84 Book2 前編』(新潮文庫)。

Thursday, August 27

朝の音楽、Bob Dylan「Rough And Rowdy Ways」を聴く。歳をとると最近のヒット曲がどれも同じに聴こえるとはよく言われる話だが、わたしには歳をとってからボブ・ディランの曲がどれも同じに聴こえる。

朝ごはん、目玉焼き、ベーコン、サラダほうれん草とイタリアンドレッシング、ミルクブレッドとクリームチーズ、ヨーグルト、珈琲。昼ごはん、お弁当。晩ごはん、ブラックペッパー味の鯖缶とピーマンとベーコンの洋風チャーハン、麦酒。

早朝、日輪の陽射しが明るく差し込んでいるのに雨が降る。通り雨。本日『精神現象学』を読み終えるものの、またいずれ再読の必要あり。夜、村上春樹『1Q84 Book2 後編』(新潮文庫)を読む。村上春樹の小説は品がないと思う(下品とまではいわないが)。

Friday, August 28

朝の音楽、Lakecia Benjamin「Pursuance: The Coltranes」を聴く。

朝ごはん、目玉焼き、ベーコン、サラダほうれん草とイタリアンドレッシング、ミルクブレッドとクリームチーズ、ヨーグルト、珈琲。昼ごはん、ヤマモリのグリーンカレー。晩ごはん、豚肉とキャベツのトマトソース煮込み、バゲット、赤ワイン。

午後半休。炎天下の新宿で買いもの。紀伊國屋書店で文庫本を6冊買って、ディスクユニオンでクラシック音楽のレコードを5枚買う。荷物が重くなる。

健康問題を理由に安倍晋三が首相の座から降りるとのこと。国内の報道を参照すると安倍晋三の病状がやたらとクローズアップされているようだが、赤の他人の病気について持続的かつ長期的に関心をもちつづける人など稀なので、所詮は当座の話題であろうと思う。潰瘍性大腸炎の話など時間の問題で忘れ去られる。それにしても7年半も政権運営をしていながら、ほとんどの政治経済外交の課題が道半ば感満載のままとは。

Saturday, August 29

朝の音楽、Jerry Paper「Abracadabra」を聴く。

朝ごはん、目玉焼き、ベーコン、サラダほうれん草とイタリアンドレッシング、ミルクブレッドとクリームチーズ、ヨーグルト、珈琲。昼ごはん、豚肉と小葱としらすと生卵をのせた温かい素麺。晩ごはん、海苔巻き、麦酒。

午前中から午後にかけて外出。恵比寿へ。東京都写真美術館で「あしたのひかり 日本の新進作家 vol.17」と「エキソニモ UN-DEAD-LINK アン・デッド・リンク」のふたつの展示をおもしろく見る。

Sunday, August 30

朝の音楽、Ana Carla Maza「La Flor」を聴く。

朝ごはん、目玉焼き、ベーコン、ベビーリーフとイタリアンドレッシング、ミルクブレッドとクリームチーズ、珈琲。昼ごはん、豚肉と小葱としらすと生卵をのせた温かい素麺、煎茶。晩ごはん、白米、茄子と小松菜の味噌汁、辛子明太子、焼き魚(ほっけ)、麦酒。

ラジオをつけっぱなしにしながら読書。村井良太『佐藤栄作 戦後日本の政治指導者』(中公新書)と『コロナ後の世界を生きる 私たちの提言』(村上陽一郎/編、岩波新書)を読む。以下の引用は後者より。

戦後政治史の中でも、これだけ知事がいろいろなことを言ったり、やっていることを見せようとして頑張ったことは稀です。皮肉なことですけれども、コロナの感染がどんどん広がるという事態の中で、初めて都道府県制というものが生き生きしてきた。
そのことは、今後安倍政権はいつまで続くのかという話と重なってくるわけです。安倍政権はこれまで何かうまくいかないことがあっても、すぐ別の施策を出して、「ほら、これがあるよ」と「やってる感」を出す形でやってきた。このたびのコロナでは「やってる感」が出せず、国民からは不信感を持たれ、いま言ったように地方に引っ張られている。いずれにせよ、近く、安倍政権は退く時が来ると思います。どういう退き方になるのか、なかなかわかりませんけれども、やはり、矢折れ力尽きたという形になるだろう。もうこれ以上やっていても、「やってる感」が出てこなくなる状況になった時に、この内閣はたぶんおしまいになる。
(御厨貴「コロナが日本政治に投げかけたもの」)

民衆はとりわけ近代において、「停止」を武器としてきたのだが、それは資本が「停止」を嫌うことを前提としている。資本制に支配された社会において資本は「わたしを止めるな」と命じるものであるから。資本は無際限の蓄積衝動をその駆動力としているのであって、それに駆動された運動が停止すればいずれ死んでしまう。ネオリベラリズムは、そのような「停止」を嫌う資本の論理をよりスムーズに遂行可能なものに社会へと全面的に再編するプロジェクトでもあった。とするならば、ボルソナロ、トランプ、そしてオブラドールとは、この資本の「停止」を禁じる命法の化身なのである。そして、現代のパンデミックに対する各国家の対応は、基本的には、人間の健康や生命ではなく、その経済の命法にどのように対応するか規定されている。
現在の危機において、例外状態をめぐる批判がむずかしいのは、このような民衆の生活に根本的にかかわる「停止」の必要が厳然と存在しているからである。アメリカ合衆国のロックダウンに反対する右派市民による要求が、単純化されてはいるが、「美容室に行かせろ」であって「美容室で働く人間」の必要とはズレているという状況がよくそれをあらわしている(要するに、経済の継続のためのリスクを負うのはやはり困窮した労働者なのである)。
しかし、ここでは、もう少し踏み込む必要がある。先ほどのテキストの引用にあるように、アメリカの先住民にとって、「世界の終わり」はすでに資本主義とともにはじまっていた。そういう意味では、かれらにとっては、この近代文明そのものが、常態としての「例外状態」だったのである。ここがまた、あたかもいずれも復帰できる通常状態があるかのように語られる例外状態論が、今回、現実とどこかすれちがってしまう理由だろう。
(酒井隆史「危機のなかにこそ亀裂をみいだし、集団的な生の様式について深く考えてみなければならない」)