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Monday, June 17

梅雨晴れ。ヘミングウェイ『移動祝祭日』(高見浩/訳、新潮文庫)を再読。高見浩の解説がためになる。

公的年金だけでは老後の資金が足りないので2000万円は必要だと諭す金融庁の試算が話題のようだが、享楽的に生きるには2000万円で足りる気がしない。老後、いちばん手っ取り早い解決策は、早死にである。

晩ごはん、牛肉のステーキ、レモン、クレソン、紫キャベツのマリネ、カリフラワーのピクルス、麦酒。

夜、Tank & The Bangas「Green Balloon」を聴く。音楽ストリーミングサービスの利用について、Spotifyを継続するかApple Musicに乗り換えるか少し迷うも、Spotifyを使いつづけることにする。理由はUIがSpotifyのほうがよいからで、いや、Spotifyがよいというより、Apple MusicのUIがあまりにパッとしなくて使う気になれないからだ。

開高健『眼ある花々』(中公文庫)を読む。

Tuesday, June 18

セルベールとイブを摂取する朝。具合の悪い一日。

自宅の本棚にあるものを再読している。堀江敏幸『子午線を求めて』(講談社文庫)とカルヴィン・トムキンズ『優雅な生活が最高の復讐である』(青山 南/訳、リブロポート)。

晩ごはん、温泉卵と揚げ玉とわかめと万能ねぎをのせたうどん、麦酒。

夜、Rozi Plain「What a Boost」とAldous Harding「Designer」を聴く。

Wednesday, June 19

報道を眺めると毎日のようにそれなりのインパクトをもつ事件・事故・災害が起きている模様。

渡邊守章『パリ感覚』(岩波現代文庫)を読む。全体を覆う80年代的な筆致が面映ゆいのだが、2006年に書かれた文庫版のためのあとがきを読むと、著者はそのことにじゅうぶん自覚的であるようで、自覚的であるがゆえに取り繕うようなことをいろいろと書いている。

本文中でも、必要な時には断わり書きを付したように、ここで語られているパリもフランスも、1983-85年当時のそれである。なにしろ考えてみれば−−考えなくても自明だと言ってしまえばそれまでだが、松浦寿輝氏がまだ東大駒場つまり教養学部フランス語教室の助手で、私も留守中の様々な事務手続きを彼に任せていたし、「プロローグ」で触れている「A・A現象」も、『逃走論』による浅田彰氏の華々しい登場のことだ−−それから二十数年が経っている。

初めに言語態あるいは語り口の選択に触れたが、大雑把に言えば、当時流行の、一種「軽薄体」に倣っている章は多い。著者は、フランス古典主義演劇の研究者でもあるから、多くの近代文学の標榜する「主観性の垂れ流し」には抵抗があり、強いて言えば、パスカルの「憎むべき自我」の主張に親近感を覚えてもいる。
そうは言うものの、演出家としての仕事は、文学とは別の場であるが、やはり作り手としての自分自身の、かなり恥ずかしげもない主観性の露呈も、避けて通れないことを教えてくれている。演出は、否応なしに、役者の身体的主観性との一対一の対決を前提としているからだ。その意味では、この書物は、物書きとしても演出家としても、私自身というものを、結構恥ずかしげもなく曝していて、それが言説パフォーマンスになっているとする書評や意見も多かった。敢えて恥を曝すことを続けたのもそのためである。

晩ごはん、鶏肉と長ねぎと温泉卵をのせた蕎麦、紫キャベツのマリネとトマトとみつば、ホタルイカの沖漬け、麦酒。

夜、Galen Ayers「Monument」を聴く。

Thursday, June 20

午後半休を取って区役所で所用を済ませたついでにTOMORROWLANDに立ち寄って、コンバースとコラボしたスニーカーを買う。

自宅にて。カミュ『転落・追放と王国』(大久保敏彦・窪田啓作/訳、新潮文庫)を読み、『トラベラー』(アッバス・キアロスタミ/監督、1974年)を見る。

晩ごはん、鶏肉とトマトとキャベツと茄子のコンソメスープ、麦酒。

夜、Big Thief「U.F.O.F.」を聴く。

Friday, June 21

通勤途中で入手したフリーペーパー『SALUS』(東急電鉄)と『メトロミニッツ』(スターツ出版)を読む。

晩ごはん、メカジキのステーキ、クレソン、紫キャベツのマリネ、カリフラワーのピクルス、茄子のソテー、オリーブ、バゲット、麦酒。

radikoで新井敏記が沢木耕太郎にインタビューしているJ-WAVE「RADIO SWITCH」を聴く。

夜、Jamila Woods「Legacy! Legacy!」を聴く。

Saturday, June 22

夏至。

天候が不安定ななか鎌倉方面へ。大船駅を離れて北鎌倉駅にむかうまで、横須賀線車内の雰囲気がなんとなく変化する感触をひさかたぶりに味わう。逗子駅で下車。バスに乗って神奈川県立近代美術館葉山に到着。お昼ごはんとして美術館併設のレストラン、オランジュ・ブルーで食事をしていたら、窓の外は土砂降りの雨。美術館で「ポーランド・ポスター展」を見ているあいだに小雨に変わって、近くにある遠藤新が設計した加地邸まで歩く。「加地邸と動く彫刻・伊藤隆道展」を見学。

逗子から鎌倉に移動。天気が悪くても鎌倉は混んでいる。鎌倉の中心部はそんなにみんなコーヒーが飲みたくてしょうがないのかといいたくなるほどコーヒーの店だらけだった。乱立するいまどきのコーヒーショップ。休憩がしたくて、café vivement dimancheにむかうも行列ができていたので、鶴岡八幡宮に立ち寄ってから、Bergfeldのカフェまでを歩く。コーヒーとチーズケーキを注文。休憩と読書。『MONOCLE』の最新号を読む。今月で閉店してしまうというブックスモブロに寄ってから、yui japanese public houseでギネスを飲んで、夜はOsteria Comacinaで夕食。

神奈川県立近代美術館の鎌倉館が閉じてから鎌倉を訪れる積極的な理由が消えて、立ち寄る古本屋も閉店してしまい(木犀堂もウサギノフクシュウもブックスモブロも)、『Hanako』なり『OZ magazine』なりの鎌倉特集を読んで新しい店ができたらしいので来てみました以外に、鎌倉へむかう動機がなくなっている。

Sunday, June 23

吉見俊哉『平成時代』(岩波新書)を読む。まったく希望を感じさせない分析が並んでいて素晴らしい。

小泉内閣は、平成を通じたすべての内閣のなかで最も「成功」した内閣である。逆に言えば、平成の日本で小泉的でない仕方で成功した政権はない。細川政権の達成は限界のあるものであったし、自社さきがけ政権のなかで社会党は自滅への道を歩んだ。橋本政権は経済的な危機のなかで力尽き、何よりも民主党政権は平成最大の失敗例となってしまった。安倍政権は小泉以上の長期政権となりながらも、小泉政権のような明確な達成がなされたわけではない。これらに対し、たしかに小泉は、最初に宣言したことをほぼやり遂げた。だからやはりこれは、「成功」した政権なのである。−−問題は、民主党政権の「大失敗」と比較するにつけ、平成時代の政治の成功は、小泉のようなポピュリズム的方法によってしか達成できないのではないかと思われることだ。細川政権から小泉政権を経て安倍政権に至るまで、平成の政治はポピュリズムと結託している。だから小泉政権の「成功」は、それ自体が平成政治の「困難」として問い返されなければならないのである。

合計特殊出生率が連続して1.5%を下回り続けるということは、その国民の人口が自力で回復不可能になる一線を超えたこと、つまりその社会の基盤がもはや持続不可能となったことを意味している。人口動向にはある種の慣性が働くので、出生率低下は長期的な傾向として維持される。実際、合計特殊出生率が2.00を下回り始めてからもう半世紀近くが経っているので、この減少はすでに長期化している。そして、半世紀以上前からの出生率低下の影響が今、人口減少となって現れ始めているのだ。つまり、出生率の変化とそれが人口構造をはっきり変化させ始めるまでの間には半世紀の時差がある。今すぐに少子化に抜本的な対策が講じられ、出生率が回復に向かっても、その効果で人口が回復基調に転じるのは、少なくとも半世紀以上あとのことだ。21世紀半ばまでの日本の大幅な人口減少は、もう変えられないのである。

この東京圏への集中化は、以前からあった地方の過疎化と東京の過密化とは質的に異なる事態である。過疎と過密の問題は、一方で地方がまだ貧しく、他方で東京が眩いほどに豊かで、地方の貧しさから来る斥力が、東京の眩さから来る引力と結合して大量の若年人口を東京に引き寄せる力学で動いていた。東京は工業のみならず文化の生産力の中心で、地方から集められる大量の労働力を必要とした。そして全国人口は増え続けており、問題なのは中央と地方の不均等な発展だった。ところがこれから起きるのは、不均等な発展ではなく、不均等な衰退なのだ。日本全体が生産力を失い、人口も減少していくなかで、それでも東京は地方の人口を吸い寄せ続ける。もう地方では東京に吐き出す人口は払底しているし、東京に集まっている人口もすっかり老いており、かつてのような眩さはまるでない。比喩ではなく、地方は死に絶え、東京にも死が迫っている。それでもなお、この集中は国が滅びるまで続くのだ。