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Monday, June 11

朝から夕方までずっと雨。

チェーホフ『桜の園・三人姉妹』(神西清/訳、新潮文庫)を読む。若い時分に読んだ際には特段おもしろいと思わなかったチェーホフの戯曲だが、年齢を重ねてから読むと、時代や環境の流れに抗えない者たちの諦念についてしみじみと感じ入ることができる。チェーホフの戯曲はため息が似合う。

夕食、トマトと小松菜のアンチョビパスタ、アボカド、バゲット、ビール。

Tuesday, June 12

洗濯物vs.雷雨の戦いは、無事、洗濯物の勝利で終わる。

ドナルド・トランプと金正恩による米朝首脳会談が実現。「歴史的」という修飾がけして大仰ではない外交的業績であるが、日焼けサロン帰りかと思う相貌のアメリカ合衆国の代表者と、どう注文すればその髪型が実現できるのか不思議でならない朝鮮民主主義人民共和国の代表者が並んでいる写真をみると、悪酔いしそうである。

チェーホフ『かもめ・ワーニャ伯父さん』(神西清/訳、新潮文庫)を読む。

夕食、白米、キャベツとわかめの味噌汁、大葉と白髪ねぎを添えた豚肉のしゃぶしゃぶ、ちくわの鰹節炒め、ほうれん草のおひたし、ビール。

Wednesday, June 13

通勤電車での読書は、ポール・ヴァレリー『ムッシュー・テスト』(清水徹/訳、岩波文庫)。

米朝首脳会談に関して書く、毎日新聞の社説より。

まさしく歴史的な瞬間だった。
シンガポールでトランプ米大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が固い握手を交わした。やや硬い表情の金氏の緊張をほぐすように、トランプ氏が彼の右腕を軽くたたく。
映画でも見るような光景である。

首脳が握手するシーンが出てくる映画なんてそうないだろう。

夕食、ざる蕎麦、キャベツのピリ辛炒め、枝豆、ビール。ウンベルト・エーコ『女王ロアーナ、神秘の炎』(和田忠彦/訳、岩波書店)の上巻を読む。

Thursday, June 14

夕食、アンチョビとコーンのリゾット、ビール。

『シネクラブ時代』(淀川長治・蓮實重彦/編、フィルムアート社)の表紙を飾る素晴らしいスチルを目にしてから気になりつつも、ずっと未見のままだったエルンスト・ルビッチの監督した『天国は待ってくれる』(1943年)をようやく鑑賞。ルビッチのテクニカラー。

Friday, June 15

最新号のエコノミスト誌の表紙にある言葉は「Kim Jong Won」。駄洒落である。

ミシェル・フーコー『知の考古学』(慎改康之/訳、河出文庫)を読む。フーコーのいわんとする「考古学」について、このように読みやすい翻訳で、それも安価な文庫本という形態で提供されているのだから、本書で論じられている方法論の実践であったところの『狂気の歴史』や『臨床医学の誕生』や『言葉と物』も改訳のうえで文庫化してほしい。

夕食、焼き魚(イシモチ)、マカロニとサーモンの梅ドレッシング和え、小松菜のオリーブオイル炒め、バゲット、赤ワイン。

Saturday, June 16

曇天ときどき雨。肌寒いを超えて、寒い。梅雨冷えの土曜日は、終日自宅で本とレコードと料理。ウンベルト・エーコ『女王ロアーナ、神秘の炎』(和田忠彦/訳、岩波書店)の下巻、佐藤泉『一九五〇年代、批評の政治学』(中央公論新社)、西山隆行『アメリカ政治入門』(東京大学出版会)を読む。

文学史の流れを前提とする「文学」は、個々バラバラの作品のことではない。一つの作品にはそれ以前に生み出されたすべての文学的集積体の記憶が凝縮され、そしてこれから書かれるであろう文学を潜在的に宿した胚芽である。個々の作品に還元することのできない持続として描き出された「文学」は、自らを内在的に展開させ、絶え間なく変容させ、新たな方向へと分岐していく力を持つものとしてイメージされる。そして、その「文学」作品を手にする読者は、やはり孤立した個人ではなく、動的な歴史の対話を行う文学的主体なのである。文学史を重要視していた五〇年代までの国語教科書は、暗黙のうちにこのような「文学」観を発信していた。しかしこうした文学史の思想および文学観は、その後、姿を消していく。
文学史の持続的な流れからほどけていった作品は、首飾りの糸が切れてしまった玉のように床に落下し砕けてしまうのだろうか、あるいは歴史を超えて輝く宝石のように失われることのない光を維持するのだろうか。「文学史」以後の「文学」は、もっぱら芸術的完成度によって評価される作品、すなわち「名作」へとその意味を変えていく。「名作」を手にとる読者も、もはや歴史の中の主体ではない。経済成長以降の文学は、五日半働いたあとの休日の余暇を利用して教養をはぐくむために読み味わう「名作」となり、または売り上げで価値を図られる商品となった。いずれにせよ、文化と文学は「完成品」として表象されるようになり、もはや人々が繰り返し創りだす過程にあるものではなくなっていく。(佐藤泉『一九五〇年代、批評の政治学』)

夕食、ポークシチュー、バゲット、ビール。

Sunday, June 17

朝、柄谷行人『漱石論集成』(平凡社ライブラリー)を読む。

イギリスに育った吉田健一は漱石の『文学論』を野暮の極みと嘲笑しているが、その吉田程度の趣味を嘲笑するような者はイギリスやフランスにはざらにいたはずである。だが、それは彼らが普遍的であることをなんら意味しない。実は、カントの『判断力批判』もそのような者たちに嘲笑されてきている。しかし、芸術に関する画期的な理論的考察は、趣味をもたない(共有しない)カントによってなされたのである。ただ、カントの仕事は芸術を「科学」と別個の領域においた(ように見える)ために、爾来芸術についての科学的考察をさまたげるもとともなった。つまりロマン派以後の西洋の芸術論は、観念論になるか、あるいは理論を軽蔑する趣味的立場に帰着したのである。誰も芸術に関してカントのように野暮な問いから始める者はいなかった。
漱石は二十世紀の初めのロンドンでそれを開始する。ロシアからフォルマリストがあらわれるずっと前である。ヨーロッパの辺境ロシアにあって、趣味を自明の前提にすることができなかった人たちが文芸の「科学」を始め、それが今日に及ぶ文学理論の先駆けとなった。だが、漱石の仕事はまったく(日本においても)無視されている。人々は、漱石自身が『文学論』に関して述べた自虐的な感想を真に受けすぎたのである。漱石は日本の古典文学・漢文学に関してたとえば吉田健一の百倍ぐらいの活きた教養をもっていただろう。だが、そのような人であるからこそ、彼は英文学に対する趣味判断の能力を欠いていると考えざるをえなかったのである。
同時に、漱石はこうした趣味がローカルな共通感覚でしかないのではないかと考える。西洋の、しかもある歴史的なものが普遍的と見なされているだけではないのか、と。だからといって、東洋の文学が普遍的なのでもない。さらに、漱石は文化的相対主義を斥ける。彼は、普遍性は、素材でなく素材と素材の「関係」形式にあると考える(『文学評論』)。ここから、文学が「科学」として考察される道が開かれる。

図書館と買いもの。珈琲豆の調達先を成城石井からカルディに変更する。

夕方、檜垣立哉『食べることの哲学』(世界思想社)を読む。哲学で味つけした食をめぐる軽いエッセイで、内容はおもしろく読んだのだが、じぶんで書いたと思われる著者プロフィールがとても気になった。

1964年埼玉生まれ。フランスの現代思想を縦横無尽に駆使し生命論に挑む哲学者であるが思想にはいった入り口は吉本隆明。また九鬼周造、西田幾多郎、和辻哲郎など日本哲学にも造詣が深く、20世紀初期の思想の横断性を突き詰めたいとおもっている。深夜3時から午前6時まで夜な夜な精力的に執筆活動を続けている。大阪大学大学院人間科学研究科教授。博士(文学)。死ぬ前に1つだけ食べるなら、讃岐うどん。趣味(というか一面の本業)は競馬です。

造詣が深いって、じぶんでいうことだろうか。

夕食、ビーフストロガノフ、ビール。