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Monday, June 4

多和田葉子『地球にちりばめられて』(講談社)を読む。外国語の勉強をするたびに気になっていた「ネイティブ」という言葉への違和感について、代弁してくれるようなことを小説の登場人物が口にしている。

実は僕もネイティブという言葉には以前からひっかかっていた。ネイティブは魂と言語がぴったり一致していると信じている人たちがいる。母語は生まれた時から脳に埋め込まれていると信じている人もまだいる。そんなのはもちろん、科学の隠れ蓑さえ着ていない迷信だ。それから、ネイティブの話す言葉は、文法的に正しいと思っている人もいるが、それだって「大勢の使っている言い方に忠実だ」というだけのことで、必ずしも正しいわけではない。また、ネイティブは語彙が広いと思っている人もいる。しかし日常の忙しさに追われて、決まり切ったことしか言わなくなったネイティブと、別の言語からの翻訳の苦労を重ねる中で常に新しい言葉を探している非ネイティブと、どちらの語彙が本当に広いだろうか。

夜、映画をみる。『セールスマン』(アスガル・ファルハーディー/監督、2006年)。

Tuesday, June 5

『みすず』6月号(みすず書房)を読む。三浦哲哉による連載「食べたくなる本」にあるつぎのくだりは、いささか理解に苦しむものがある。

あるいは、「家庭的」という象徴性に肉じゃがの本質を見るならばどうか。小林カツ代的な、清く正しい昭和の家庭料理像を体現する存在としての肉じゃがのエッセンスを、それだけ分離して、時間差で組み合わせるということになるだろう。ゲストが食べ進めている途中、不意に厨房から小林カツ代風の女性が割烹着姿でちらっと登場して目が合う、などはどうだろうか。

前段の文脈をぶった切った引用なのでこれだけでは意味がとおらないのだが、問題は文章の内容ではない。「肉じゃが」と「小林カツ代」と「清く正しい昭和の家庭料理像」を無邪気にならべてしまっている点にひっかかりをおぼえる。これではまるで、小林カツ代が伝統的な昭和の家庭料理の文法に沿って、肉じゃがをつくっていたかのように読めてしまう。しかし、阿古真理『小林カツ代と栗原はるみ 料理研究家とその時代』(新潮新書)が指摘するように、実際には、小林カツ代は伝統的な家庭料理の方法論を破壊した人である。小林カツ代の肉じゃがレシピの肝は、簡単で時間をかけずにでもおいしく、なのだから。清く正しい昭和の家庭料理像とはちがっている。完璧なものではないけれど時短でおいしいものはできるという、料理する時間の限られた現代生活者へ向けたレシピを呈示しつづけた小林カツ代の革新性を、上記の引用文は無視している。小林カツ代の「見た目」から横滑りした誤解を招くような記述になっている。主題が料理とは関係ないのであればともかく、料理本をテーマにした文章でこれはないんじゃないかという感じである。

夜ごはん、クリームシチュー、バゲット、レーベンブロイ。『UP』6月号(東京大学出版会)を読む。

Wednesday, June 6

ケイト・スペードが自殺。寺尾次郎の訃報に驚く。

毎朝5時半ごろに朝日、読売、毎日、産経、日経の各新聞の社説を電子版で読んでいるのだが、読売新聞だけがその時刻に最新版の社説が掲載されていない。早く起きろ読売。

本日の読書は、冨田恭彦『ロック入門講義 イギリス経験論の原点』(ちくま学芸文庫)。

夜ごはん、素麺、卵焼き、かぶの葉と白菜のピリ辛炒め、たこわさ、麦酒。

Thursday, June 7

上川龍之進『電力と政治 日本の原子力政策全史』(勁草書房)を読んでいる。上下巻あるうちのまだ上巻を読んでいる最中だが、独創的な分析があるわけでもなく、既存の文献を渉猟してまとめた以上のものは感じられない内容。

夜ごはん、豚肉とかぶとほうれん草のパスタ、赤ワイン。

Friday, June 8

有給休暇。

すでにもっている本を買ってしまったと半分自嘲気味に、半分自慢ん気に語る本好きをしばしば見かけるが、みずからの管理能力の欠陥を露呈しているだけで、なんの自慢にもならない。用心のため、定期的に本棚を整理しながら蔵書を確認する。確認していたら日が暮れた。

夜ごはん、ズッキーニのキーマカレー、麦酒。

Saturday, June 9

天気予報は本日が真夏日になるだろうと予想している。梅雨入りして湿度が高く、そのうえ陽射しが照りつける具合が悪くなりそうな天気。ジョナス・メカス『メカスの映画日記 ニュー・アメリカン・シネマの起源 1959‐1971』(飯村昭子/訳、フィルムアート社)を持参して外出する。

代官山の定食屋末ぜんで刺身定食を食べてから、蔦屋書店で古い映画のDVDを借りて、本や雑誌を確認する。立ち読みに疲れて、途中Anjinで休憩。麦酒を飲む。代官山蔦屋はいつも賑わっているが、とりわけスタバの混みっぷりは尋常でなく、なんなんだあれは。飲みものを買っても座る場所がない。蔦屋書店をあとにして代官山をうろうろ散策していたら、感じのよさそうな、でも混み合っているわけではないカフェがいくつかあり、わざわざスタバの行列に加わる必要はないと思うのだが。

LOKO GALLERYで松原健「Spring Steps」を見てから、服や雑貨や食器の店をのぞきつつ恵比寿まで歩く。The Harvest Kitchen General Storeでサタルニアのオーバルプレートを買う。東京都写真美術館で内藤正敏「異界出現」を見る。新宿うな鐵の恵比寿店で夕食をとる。

Sunday, June 10

曇天模様からの雨降り。読書。正木香子『文字と楽園 精興社書体であじわう現代文学』(本の雑誌社)と多和田葉子『言葉と歩く日記』(岩波新書)を読む。再読となる『言葉と歩く日記』のつぎのくだりを読みながら、先日読んだ『地球にちりばめられて』のことを反芻する。

何をするのにもわたしは言語を羅針盤にして進む方向を決める。言語の中には、わたし個人の脳味噌の中よりもたくさんの知恵が保存されている。しかも言語は一つではない。二つの言語が別々の主張をして口論になることもあるが、独り言をぶつぶつ言っているよりも自分の頭の中で二つの言語に対話をしてもらった方が、より広くより密度の高い答えが生まれてくるのではないかと思う。

蒸し餃子、わかめスープ、塩辛、麦酒という昼夜兼用の食事ののち、ミュージカル映画二本立て。『踊る大紐育』(ジーン・ケリー、スタンリー・ドーネン/監督、1949年)と『イースター・パレード』(チャールズ・ウォルタース/監督、1948年)を見る。歌と踊りの素晴らしさに較べて、脚本のてきとうさが凄い。