347

Monday, September 18

ひさかたぶりの新潮クレスト・ブックスとして手にとったテジュ・コール『オープン・シティ』(小磯洋光/訳、新潮社)をおもしろく読む。精神科医を職とするナイジェリア系アメリカ人の主人公が結構なインテリであるがゆえ、ややスノビッシュな固有名詞の乱舞が気になるといえば気になるけれど(もっともそのことを反転させるようなエピソードが終盤挿入される)。ところで、あとがきによると訳者が本書に出会ったのはイギリスの大学院留学中に「ゼーバルトの小説に似ているよ」と書店員に教えられたのがきっかけだという。作者のテジュ・コール自身、敬愛する作家としてゼーバルトを挙げているようだが、しかし、読みながらゼーバルトとの親和性はそれほど感じられず。英語で読むとまた印象はちがうのかもしれないが。

Tuesday, September 19

ドナルド・トランプが金正恩のことをロケットマンと呼んだらしいが、ロケットマンといえば金正恩ではなくふかわりょうだろう。しかし金正恩によるロケットマンショーはやだな。

Wednesday, September 20

ベン・ラーナー『10:04』(木原善彦/訳、白水社)を読了。木原善彦は訳者あとがきでつぎのように書いている。

現代小説に新しいタイプのものが現れつつある。遊歩小説とでも呼びたくなるような種類の作品たちだ。そこでは、一般的な物語に見られるような大事件は起こらず、主人公の身の回りの出来事やそれらに関する観察が綴られる。時にエッセイ風、時に詩的に響くそんな要素を交えた文学先品は、ドイツ生まれの作家W・G・ゼーバルト(1944-2001)あたりを嚆矢として、アメリカではデジュ・コール、あるいは本作を書いたベン・ラーナーなどにその流れが引き継がれている(ただし、今挙げた三人の文体はそれぞれの語り手のキャラクターに応じて、互いに味わいがまったく異なる)。

またもやゼーバルト。たしかにテジュ・コールとベン・ラーナーは、小説の肌触りにちがいはあるものの比較したくなる雰囲気をもっている。しかしゼーバルトはどうだろう。ゼーバルトとの親和性をいえばいうほど、ゼーバルトの特異性がむしろ際立つような。

Thursday, September 21

内田洋子『十二章のイタリア』(東京創元社)の冒頭、入学した東京外国語大学での苦労が綴られている。

外国語をものにして未知の世界へ飛び出そう、と意気込んでいたのに、来る日も来る日も私たちは俯いて過ごした。授業までに下調べは間に合わず、休憩時間も昼食をとりながらも、授業中も放課後も、常に辞書を引いていたからだ。
引いても引いても、少しも先へ進まない。一行のうち辞書なしで読めるのは句読点とかぎ括弧だけ、という箇所も多い。辞書と首っ引きの毎日を送り、溜め息を吐くたびに、まだ見ぬイタリアはますます彼方へと遠ざかっていった。
そもそも当時は、充実した日伊辞典が存在しなかった。唯一市販されていたのは数十年前の監修のまま古く、しかも薄く、イタリア語を引くうちに古色蒼然とした日本語と遭遇し、今度は現代国語辞典を引くことになり頭を抱える、ということも多かった。やっと調べ終わると、すぐ前の行で調べた言葉をもう忘れている。到着点の知れない勉強を前に、私は途方にくれた。
「伊伊か伊英辞典を使えば済むことです」
相談すると、教授はこともなげに言うのだった。
前夜までに家で予習が間に合わなければ、時代遅れの伊和辞典、現代国語辞典、伊英辞典、英和辞典をひと揃えて大学へ行くこともあった。
一語ごとに辞書を引くたびに、一歩ずつ深い森に踏み入っていくような気分だった。いったん入り込むと、簡単には抜け出せない。いよいよ迷ったか、と観念すると突然、目の前に抜け道が見つかったりする。そういう経験を繰り返すうちに数年が流れ、イタリアへほんの少しずつ近づいていった。

ここに書かれている時代よりいまのほうが格段に語学学習の環境は充実しているはずだが、しかしながら現在においてもなお、語学学習の最短距離は体系化されてはいない。眉唾ものの語学教材の宣伝はべつとして、努力や苦労を経ずに外国語を習得したという話は聞かない。

Friday, September 22

トンミ・キンヌネン『四人の交差点』(古市真由美/訳、新潮社)とクセニヤ・メルニク『五月の雪』(小川高義/訳、新潮社)を読む。どちらも新潮クレスト・ブックス。前者はフィンランドの作家、後者はロシア生まれでアメリカ在住の作家。外国文学づいている。

Saturday, September 23

よしながふみ『きのう何食べた?』13巻(講談社)を買う。

林道郎の企画したDIC川村記念美術館での展覧会は結局行けずじまいだったので、かわりに企画展の趣旨を論考化した『静かに狂う眼差し 現代美術覚書』(水声社)を読んでいる。あらためて川村記念美術館の収蔵品点の充実ぶりを思うが、美術館の立地が不便すぎておいそれとは出かけられないのが難。

Sunday, September 24

カフェや喫茶店で本を読む機会がいちじるしく減った。減ったというよりゼロに等しい。いま自宅の環境が本を読むのに最適化されており、外で読書をする理由がない。あと、体力の低下で重い本をもって出かけるのが苦痛なのも原因。