Monday, February 20
帰宅時の道中、土砂降りの雨でずぶ濡れになる。アマルティア・セン『経済学と倫理学』(徳永澄憲・松本保美・青山治城/訳、ちくま学芸文庫)を読む。
Tuesday, February 21
川北稔『イギリス 繁栄のあとさき』(講談社学術文庫)を読了。
「ジェントルマン資本主義」のような考え方とは正反対の議論に、戦後の日本の歴史学界で大流行したマクス・ウェーバーの議論があった。すなわち、「プロテスタンティズムの倫理」が広がったことに、イギリスの資本主義の展開の背景を求めたマクス・ウェーバーの見方は、それが「経済合理主義」を生み出し、近代的簿記の発展などを含む「合理的経営」につながり、「時はカネ」とする時間の観念や、禁欲と勤勉という行動倫理を生んだとするものであった。つまり、ホモ・エコノミクスに近い人間類型の出現が、イギリスを資本主義に向かわせたというものであった。しかし、このような考え方は、ウェーバーの文献解釈に関する分析や、経済史の実証的研究からして、今ではほとんど支持できない。
本書のはじめのほうにある上記のくだりを読んで、著者はきっと大塚久雄のことが嫌いなんだろうなと忖度していたら、最後のほうになってつぎのような記述に出くわす。
戦前・戦後の日本人は、イギリス近代史に「経済的成功の秘訣」を求めた。その結果は、かの大塚史学という壮大ではあるが、はなはだ権威主義的な解釈の横行となった。日本自体が経済成長に成功すると、このようなイギリス経済史が決定的に魅力を失ったのは当然である。今日から見ると、むしろ、イギリスの没落過程の「緩やかさ」こそが、われわれとしては模範とすべきではないか。これが本書で私がもっとも言いたかったことである。
Wednesday, February 22
現代中国に関する本を二冊読む。古畑康雄『習近平時代のネット社会 「壁」と「微」の中国』(勉誠出版)と川島真『21世紀の「中華」 習近平中国と東アジア』(中央公論新社)。
Thursday, February 23
先週のエコノミスト誌の特集が「生殖と科学」だったので、米本昌平+松原洋子+橳島次郎+市野川容孝『優生学と人間社会』(講談社現代新書)をぱらぱらを読み返していた。生命科学の技術的進展がめまぐるしいなかでも、2000年刊行の本書で展開される歴史分析の射程は、いまなお参照に値する鋭さをもっている。好著。
本書の重要な帰結の一つは、優生学が二度と許してはならない悪の極北として位置づけられるようになったのは1970年前後であった、という点である。
第二次世界大戦の戦後処理の過程では、ナチズムの悪とは、暴力的な政治体制とユダヤ人などの大量虐殺を指していた。大規模に行われたナチスの断種政策は、確かに他の国と比べれば極端なものではあったが、実際には、似たような「保健政策」は、他の国でも実施されていた。断種政策は、50-60年代には、まだ「問題」として見えていなかったのである。
(中略)
再発見されたナチス優生学は、70年代以降、先端医療やバイオテクノロジーの研究で新しい展開があるたびに、批判の枠組みの基準点の役割を果たすことになった。そして、このようにして成立したナチズム=優生社会=悪の極北という図式は、研究や技術使用の場面にナチス優生政策との類似点を見つけ出し、そこに危険が含まれることを喚起する機能を果たすことになった。このような機能をもっった優生学を「危険イメージとしての優生学」と呼ぶことにする。
ここでは、「おぞましい」ナチス優生学がどのように危険かという設問は不必要とみなされた。また、ナチズムの優生政策だけが問題にされ、他の優生政策はあたかも存在しないもののように扱われてきた。他の優生政策を見えなくさせた、この作用は重要である。たとえば、1996年まで存在した優生保護法は、ほとんどの日本人の視野の内にはなかったし、優生思想と福祉政策の間に強い親和性があったとする見方も生まれなかった。
確かにナチス優生学は、生物学的に純粋なドイツ・ゲルマン人を一人でも増やそうとする、奇怪な国家目標を実現するための政策の一翼を担ったものである。しかし、ナチズムの悪をその優生政策で対置する解釈図式は、本書でここまで述べてきたように、優生学の実証的研究が進めば進むほど、つじつまが合わなくなってくる。だとすれば、「危機イメージとして優生学」という、歴史解釈を事実上の倫理規範の代用としてきたこれまでの共通意識そのものを検証し、そのなかから、先端医療やバイオテクノロジーに対する批判原理を原理として抽出しなおす必要がある。科学技術の水準の面でも、また歴史的時間の容赦ない流れからも、このような課題にわれわれは直面しているのである。
(米本昌平「生命科学の世紀はどこへ向かうのか」)
Friday, February 24
エコノミスト誌でケネス・アローの訃報を知る。というか、存命だったのか。
Saturday, February 25
林佳世子『オスマン帝国500年の平和』(講談社学術文庫)を読了。
自宅にひきこもりがちだった二月。ひさしぶりに都会に出る。山手線の新橋駅で下車し、歩いて銀座を北上する。
「mintdesigns / graphic & textile works 2001-2017」(クリエイションギャラリーG8)
「吉岡徳仁 スペクトル」(資生堂ギャラリー)
「ウィリアム・クライン Dance Happening, Tokyo 1961」(AKIO NAGASAWA)
「曖昧な関係 Les Liaisons ambiguës」(銀座メゾンエルメス)
「太陽の宮殿 ヴェルサイユの光と影 カール・ラガーフェルド写真展」(シャネルネクサスホール)
「あなたに続く森 青木美歌」(ポーラミュージアムアネックス)
gggで仲條正義の展示を見るのを忘れた。
東京駅近くまで歩いて丸善へ。4階のカフェで赤ワインを飲みながら休憩ののち、洋書売場で『MONOCLE』3月号を買う。今年で10周年を迎える『MONOCLE』は少しリニューアルすると聞いていたので、あのダサい表紙が改善されていたら嬉しいと思ってみたら、さらにダサくなっていて何事かと思う。中身のエディトリアルデザインは素晴らしいのになぜ表紙がああなのか理解に苦しむ。『MONOCLE』は創刊号からしばらく買っていて、途中読まなくなり、ここ数年また読んでいるのだが、ずいぶん前の引越しの際に創刊当初の号を処分してしまったのは、ちょっともったいなかったかもしれない。しかしこの雑誌は重くて場所をとるのだ。
Sunday, February 26
自宅で読書三昧。飯野亮一『すし 天ぷら 蕎麦 うなぎ 江戸四大名物食の誕生』(ちくま学芸文庫)、ジャック・ラカン『テレヴィジオン』(藤田博史・片山文保/訳、講談社学術文庫)、土肥恒之『ロシア・ロマノフ王朝の大地』(講談社学術文庫)、宇野弘蔵『社会科学としての経済学』(ちくま学芸文庫)。最近読んでいる本が講談社学術文庫やちくま学芸文庫ばかりなのは、図書館の検索で「講談社学術文庫」もしくは「ちくま学芸文庫」と入力して出てきた結果から、気になったものをかたっぱしから読んでいるから。