Wednesday, January 14
きのう読み始めた、ブルース・チャトウィン『黒ヶ丘の上で』(栩木伸明訳、みすず書房)を読み終える。もう最後はたたみかけるように、一気に読了。とても面白かった。20世紀の幕開けとともに、ウェールズとイングランドの境界線に立つ家に誕生した双子、ルイスとベンジャミンが生きた約一世紀。親族や隣人たちとの交流はあるものの、いわゆる激動の“世の中”とは隔絶した生活を送ったルイスとベンジャミンの日々がみずみずしくも淡々と、粛々と描写された末に描かれる、ふたりの80歳の誕生日の一日。いままで溜めて溜めて溜めてきたものが一気に放出され、解放される、その鮮やかさと高揚感といったら見事だった。双子の母親の人物造形もまた魅力的で、双子が生涯、母親の思い出を大切に守りつづけた説得感にあふれていた。こういう小説を読むと、つくづく自分にとって読書とは“解放”だなあ、と感じる。つまらない枷から解き放たれて、視界が開ける。自分のいる世界に奥行きが出る。処世のために本を読むのではない。世界を肯定するために、わたしは本を読む。これは子どもの頃に本を読んだ経験を思い返して、わたしが導き出した答えだ。
Saturday, January 17
朝一番で美容院を済ませ、帰宅し、かぶとかぶの葉とベーコンのパスタ、グリーンリーフと紫玉ねぎのサラダ、バゲット、珈琲の昼食をとる。支度をして、表参道へ。CoSTUME NATIONALで「ホンマタカシ Chandigarh」、ラットホール・ギャラリーで「ジョン・ジェラード Sow Farm」、ときの忘れもので「植田実 まだ街があったころの街」を観る。
本日の展示も、すべて当たり。アイルランドの映像作家ジョン・ジェラードの「Sow Farm」は、オクラホマにある、大量の分娩に従事する雌豚の畜舎の周りを24時間365日旋回し続けるカメラの映像が延々映し出されるもの(リアルタイム3Dコンピュータ・グラフィックスを駆使して制作しているそうだけれど、今回の作品で用いているのか、どのように用いているのかはわたしにはわからず)で、瞬間、写真か静止画に見まがう。のち、じわりじわりと動きがあることがわかる。わかるがしかし、一体どんなふうに撮っているのだろうか。カメラが旋回しているということは、地面にレールを引いている? 映像の動きが滑らかだから、カメラをつり下げている? よくわからないのだが、わたしはこういう、目を凝らさなければわからないくらいにほんの少しずつ変化していく映像というものがめちゃめちゃ好きで、だから時間が許す限り延々と見ていた。ほんとであれば24時間365日見てもいいくらいだ。それは言い過ぎかもしれないけれど、3時間くらいなら余裕で見続ける自信がある。それにしてもわたしはなぜこうした作品が好きなのだろう。
カレーライスとカレーパンのお店が表参道沿いにできていて、魅力に抗い切れずカレーパンを買って食べ歩きした。食べながら歩くのは、こぼしたり、口のまわりが汚れたり、食べにくかったりするけれど、なんとも言えない楽しさがある。しかしきょうはものすごく風が強くて、ほとほと寒い。渋谷まで歩いて、初台へ移動。fuzkue、やっとこさ二度目の訪問。シメイブルーを飲みながら金井美恵子を読む。それにしてもなんと読書の捗る空間であることよ。また来週も来たいなあ。
Sunday, January 18
午前中は、チャトウィンの『黒ヶ丘の上で』に出てくる野生の植物と、メアリー・ノートンの『小人の冒険シリーズ』に出てくる植物を調べ、比較して遊んでいた。『黒ヶ丘の上で』の細やかな情景描写には、ハシバミ、ヒース、イチイ、ハリエニシダ、月桂樹、イヌバラ、スイカズラ、フクロソウ、ジギタリス、ニワトコ、タチアオイ、キンレンカ、サンザシ、トネリコ、イラクサ、レバノンスギ、ツルバラ、ハナニレ、などなど非常に多くの植物名が散りばめられているが、わたしにとってこれらの名前の半分くらいは、子どもの頃に読んだ児童文学、特に、イギリス児童文学によって知り得たもので、即座に思い出すのが『小人の冒険シリーズ』の、とりわけ『野に出た小人たち』に登場するニワトコやサンザシやカタバミやハシバミやスミレやサクラ草やキンポウゲやルリソウやワスレナグサといった名前に親しんだ思い出だった。このおかげで、『黒ヶ丘の上で』を読みはじめてすぐ、物語世界にぐっと近づいた気がしたのだった。『小人の冒険シリーズ』を読み出すときりがなくて、日が暮れてしまうので、我慢して切り上げ、食材と日用品の買い出しに出る。
お昼、鮭のおにぎり、油揚げと玉ねぎの味噌汁、タコのお刺身、キムチのせ冷奴、ビール。食後、図書館で本を返す。そして借りる。帰宅して、雑用したり、かぶのソテーやこんにゃくのピリ辛炒めやにんじんとしめじを白だしで煮たものや漬物なんかをつくったりしていると、いつものことながらあっという間に夜がきてしまう。夜は、豚肉とかぶの葉の炒め物、ほうれん草と油揚げの炒め物、玉ねぎ入りスクランブルエッグ、バゲット、ビールの食事をとりながら、昨年11月にアップリンクで観てあまりの素晴らしさに茫然とした、ジョナス・メカス『Out-Takes from the Life of a Happy Man』(2012年)を観た。やはり今回も食い入るように見つめてしまった。
この作品は、メカスの、とりわけ家族にまつわる思い出が綴られていて、言ってしまえばいわゆるひとつのホームムービーなのだろう。しかし、普通の人がホームムービーを撮ったとしても、このような作品にはならない。絶対にならない。あるエピソードが語られるわけでもなく、時系列に沿うこともなく、断片ばかりが途切れることなく無秩序に映し出されるそれはまさに、わたしたちの記憶そのものなんだよ、とメカスに優しく教えられているように思える。