Thursday, January 1
元日。今年2015年が生誕85年&没後15年にあたるオーストリアのピアニスト、フリードリヒ・グルダを特集したNHKFMの特番を聴きながら、お節料理と雑煮に食べ、熱燗を飲む。
部屋の壁にプロジェクターで映す本年のお正月映画は、『簪』(清水宏監督、1941年)と『熱波』(ミゲル・ゴメス監督、2012年)を選んだ。
『簪』は古い日本映画はやっぱりいいなあと思わせる佳作で、出演は田中絹代、笠智衆、斎藤達雄、日守新一と言うことなし。気難しい学者先生を演じる斎藤達雄が痩せた吾妻光良に見えてしかたがないのだが、それにしてもこの学者先生の挙動がたいへん魅力的なので、本作での斎藤達雄のたち振る舞いのモノマネを極めることを、今年の目標として掲げたい。
笠智衆が、浸かっている温泉で田中絹代の簪を踏んづけて怪我をしてしまうのが話の展開のポイントなのだが、怪我したあとの笠智衆の足の引きずりかた尋常でなく、簪を踏んだくらいでそれほどの大怪我をするものなのだろうかとか、怪我をしたあとリハビリとして歩く練習を何度もするのだけれど、そんなことはやめて安静にしていたほうが治りは早いのではなかろうかとか、そもそも簪ってお湯に沈むものなのかとか、いろいろと気になる。
植民地主義と姦通話という凡庸といえば凡庸なストーリーが紡がれる『熱波』は二部構成で組み立てられた作品で、二部で物語が一気に動き出すのだが、それがひとりの男の老人によるナレーションだけで進んでゆく(状況すべてを言葉で説明する)のは「映画」としてありなのかという一抹の疑問が浮かびはするものの、しかしながら最後まで退屈せずに見終えることのできる映画だった。老人の孫だかがもう爺さんはボケちゃってと言っているのがあって、となると二部で延々と語られる不倫話もひょっとして壮大なホラ話かもしれないけれど、でもホラ話にしてはいろいろと辻褄が合いすぎか。
元日早々、『重力の虹』の原文と日本語訳を比較しながら読むという酔興なことをやった。あけましてピンチョン、今年もよろピンチョン。
Friday, January 2
正月早々、正月料理に食傷し、パンケーキと珈琲、レッドカレーとビールという異国情緒あふれるメニューが食卓にならぶ。
『芥川竜之介随筆集』(石割透/編、岩波文庫)を読んでいて気づくのは、あらゆる漢字が新字体に変更されていてそれはまあいいのだが、驚くのはその変更の徹底ぶりで、内田百閒が内田百間と表記されていたのだった。これまで、内田百閒の「閒」の字をどうするかというのはインターネット上でそれなりの苦労があったはずで、「百けん」とひらがなで妥協したり、「百間」と書いたあとに括弧つきで「(正しくは門構えに月)」と言葉を添えることで対応したり、一部の文字化けなんて知るかとばかり「百閒」で押し通したりしていたものだが、岩波文庫があっさりと「百間」と印刷している。
数日ぶりにiPadを立ち上げたら、エコノミスト誌が2015年最初の号に更新されていた。今年もまた、本心では世界情勢など知ったことかと思いつつ世の中の動向を追うことになるだろう。
Saturday, January 3
『愛、アムール』(ミヒャエル・ハネケ監督、2012年)を見る。ハネケ特有の観客を煙に巻くような嫌みはなく、ジャン=ルイ・トランティニャンとエマニュエル・リヴァの演技にただただ感心する作品だった。しかしイザベル・ユペールががらんどうになったアパルトマンの部屋を歩くラストシーンは不要である気がして、そこから作品を吟味するためになぜか、鑑賞後に劇中の部屋の間取り図を書いた。
『こうのとり、たちずさんで』(テオ・アンゲロプロス監督、1981年)を見る。ラストの、電柱をのぼっていく電線工事の黄色い服を着た人びとの姿が印象ぶかいのだが、電柱にのぼる人のなかで右端の人だけなぜ体の向きが逆なのだろうと気になる。
夜、浅蜊とトマトと長ねぎのパスタ、赤ワイン。
Sunday, January 4
正月休みの最終日、『セリーヌとジュリーは舟でゆく』(ジャック・リヴェット監督、1974年)を鑑賞。192分。ぐるぐるぐるぐる物語はめぐる3時間ちょっと。ジュリエット・ベルトとドミニク・ラブリエの着ている服がよかった。
昼食兼夕食として、蛸とほうれん草とハムのソテー、トマトとタマネギのコンソメスープ、コンキリエッテのオリーブオイル和え、バゲットとパテ、赤ワイン。
InterFMで、ジャイルス・ピーターソンがゲストの今年最初のバラカンビート。蛸と長ねぎのわさび醤油和えをつまみつつ、ビールを飲みながら金井美恵子『小説論 読まれなくなった小説のために』(朝日文庫)を読んでいる。