夏休みの課題図書 大人になってからの児童文学(3)

「大人になってからの児童文学の第3回、最終回です。何が驚くって、この企画がまだ終わってなかったという事実。初回は去年の8月ですから」

「まさかの年またぎ企画です。もともと3回に分けて掲載しようとは決めていたのですが、まさかこんな延び延びになってしまうとは……」

「夏休みの宿題を一年かけて片付けたような」

「でも、ちゃんと8月中に間に合いましたよ!」

「詭弁ですね」

「ま、いいじゃないですか! では早速はじめましょう。まずは児童文学の金字塔のなかの金字塔と言っていい『トムは真夜中の庭で』(フィリパ・ピアス/作、高杉一郎/訳、岩波少年文庫)です。ちゃんと読みましたか?」

「これまでずっと児童文学を忌避しつづけてきたんだけど、ついに読んだんですよ、これは。つい先日」

「あらすじを簡単に確認しておくと、主人公の少年トムは、はしかにかかってしまった弟から引き離す必要があったため一時的におじ夫婦に預けられるんですね。おじ夫婦が住むアパートの一階ホールには、上階に住む大家さんのおばあさんの持ち物である大時計が据えられているのですが、ある夜、その大時計が13回鐘を鳴らす、つまり13時の時を告げていることに気づいたトムはホールに降りてきて、奥の戸口の先にとても美しい庭が広がっているのを見つけます。13時が刻まれるたびにその庭に遊びに行くようになったトムは、ハティという名の女の子と出会う。不思議なことに、行くたびにその庭の時間は行きつ戻りつして、ハティはトムよりも小さな幼女になったり大人の女性に変わったりするのですが、お互いがお互いを、一体誰なの? もしや幽霊? などと訝りながらも心を許し合い友情を育んでいった二人の世界がやがて変容していって……」

「このあたりを読んでいて、まさかの夢オチを心配しました」

「そんな心配は無用です! ところで、この作品は何かと取りあげられることが多い気がして、それだけ完成度の高い物語だということでしょうけれど、「大人になってからの児童文学(1)」の冒頭でもとりあげた植田実の児童文学書評集『真夜中の庭 物語にひそむ建築』(みすず書房)でも扱われてまして。建築雑誌の編集長を長らく務められた植田さんらしく、この作品の翻訳を手がけた訳者高杉一郎が「構成が実に知的で、間然することがない」「美しい建築を眺めているときのような陶酔を感じる」と評した言葉を引用してました。物語は、ひとつひとつ緻密に組み立てられてきた構成によって最後、読み手のすべての感情を昇華させるような大団円を迎えるのですが、ラストを明かしてしまうのはとっても気が引ける物語ですので、ぜひ一度読んでいただきたい作品です」

「植田実の書評では、プルーストの『失われた時を求めて』を引き合いに出すでしょう。プルーストがそうだったように、ピアスにとっての追憶行為をファンタジーとして完結させたのが『トムは真夜中の庭で』だと。読んでいて『失われた時を求めて』と似た感触があるなというのは思ったんです。序盤にでてくる

トムは、両手で木の幹をだきながら木のぼりをするときの触覚が指さきに感じられるような気がした。すみっこの花壇で咲きほこっているヒヤシンスのしつこい花のにおいが鼻さきにただよってくるような気がした。トムは、わが家のヒヤシンスのにおいを思いだした。クリスマスやお正月には、おかあさんが部屋のなかでそだてている花鉢の球根から、晩春には家のそとの花壇から、ただよってくるヒヤシンスのにおいを思いだした。わが家のことを思いうかべながら、トムは眠りにおちた。

という一節。主人公の知覚をきっかけとして追憶の物語がわーっと広がってゆく感じ、あれはプルーストですね」

「ああ、それは「大人の読み」ですね。子どもの頃は結末にただただ感動するばかりでしたが、大人になってから素晴らしい文筆家に導かれて、ふたたび名作の素晴らしさに唸り、その先の深みについて思いをめぐらすことができたりする」

「いちおう括りとしてはタイムトラベルものだと思うけど、そう単純じゃないところがおもしろかった」

「「時」はこの物語の大きなテーマですね」

「ピアス自身のあとがきで、執筆前にジョン・ウィリアム・ダンの『時間についての実験』という本を読んで下敷きにしたと言ってるでしょ。ダンについて少し調べてみると、軍人で航空技師だった人で、独特の時間の理論を唱えたらしい。この人の本をぜひ読んでみたいと思ったんだけど、どうも日本語の翻訳が見あたらない。時間論として思想的に意義のある本であれば、広く紹介されてるはずなんだけど、それがない。ウィキペディアその他をざっと見てまわったところ、このダンという人、長年にわたる予知夢と幻覚の実験で独自の時間論を生み出したらしく、過去と現在と未来は同時に起こると言っているらしい。たしかに「独自」の理論ではあるけれど、疑似科学の臭いがぷんぷんして、後世に残らなかったのも無理はないかもしれないと思いました。でも、同時代の人びとに与えた影響は結構大きかったようで、T・S・エリオットにも影響を与えているとかいないとか。ピアスも影響を受けたひとりであるわけですね。『トムは真夜中の庭で』も単に過去に行くとか未来に行くという話ではないですよね。過去と現在と未来を同時に知覚する、そんなイメージで語られている。過去から現在があって未来に至るという直線的な時間認識を脱臼させた枠組がおもしろいところです」

「いくらでも深読みできそうです」

「そういえば、偶々だけど、このあいだ大江健三郎の『定義集』を読んでいたら言及してましたよ、『トムは真夜中の庭で』について」

「え? 本当? どんな風に語ってますか?」

「翻訳と辞書を左右に、真ん中に原書を置いて一冊読むって話の流れで出てくるんだけど……」

「それは……。「大人の読み」以外の何ものでもない……」

「大時計の内側に刻まれたヨハネ黙示録のからの「もう時がない」(”Time no longer” )という一句がいかに効果的かを語ってました」

「作家を刺激するんでしょうか、『トムは真夜中の庭で』って。堀江敏幸の『象が踏んでも 回送電車IV』(中央公論新社)にも登場してまして」

「でました堀江敏幸」

「“真夜中”をテーマにこの作品ををとりあげ、「戦後四年間、シベリアの捕虜収容所で過酷な生活を送り、いわば生存の「真夜中」を体験した高杉一郎は、二〇〇八年一月九日、九十九歳でこの世を去った。奇縁というべきか、ピアスの夫は、第二次世界大戦後、日本軍の捕虜となったときの心的外傷が原因で、生後間もない娘を残して他界している。ピアスの創作には、愛するひとが抱えていた深い闇が影を落としていたのだ。高杉とピアスは、戦争体験によっても間接的に結ばれていたのである」と、作者と訳者の結びつきに視線を送ります」

「『トムは真夜中の庭で』って、高杉一郎の訳業も高く評価されているようですね」

「高杉一郎はシベリア大戦の傷を乗りこえ、エスペラント語研究の傍ら、ピアスの名作を翻訳したわけですが、堀江さんは、彼自身の著作と児童文学研究のつながりはよくわからないとしながらも、「しかし、深いところで両者は底を通じている。トムは裏庭につづく扉を抜けて幸福な時を往還し、高杉一郎は正反対の時空をくぐり抜けて戻ってきた。抑留などという重く苦しい言葉が、英国十九世紀、ヴィクトリア朝の終わりを舞台とする庭の出来事と無理なく響き合うはずはないだろう。それでも彼らの真夜中には、ひとの心を小さくまとめてしまわず、大きく外へと押し出す余白がある。十三時の鐘によって開かれた、思いがけない余白。黒々とした夜の前に「ラウンド」という前置詞があったように、トムの庭の前には「で」という助詞があるのだ」と述べ、作品の原題をそのまま直訳すれば『トムの真夜中の庭』であるところに「で」をつけ加え、「の」という所有格をとって主格の「は」に差し替えることで「トム自身の行動と庭そのものに潜む動的な側面をさりげなく強調してみせた」高杉の炯眼を示しています」

「それも「大人の読み」だよね。子供は頓着しないでしょう、助詞に」

「ですね」

「「の」という所有格を削除して主格の「は」に差し替えることで……とか語り出す小学生がいたら嫌だよ」

「「で」つながりで言うと、わたしは『ふたりは屋根裏部屋で』(さとうまきこ/作、あかね書房)という物語を思い出すんです」

「どういうお話でしょう?」

「家族とともに古い洋館に暮らすことになった少女が、時計の鐘の音を合図に屋根裏部屋の開かずの扉が開いて、そこで何十年も前にその部屋に住んでいた少女と出会う、というタイムトラベルもので、とても面白くて何度も読み返したのでよく憶えてます。また読んでみたい一冊ですね。あとタイムトラベルものでは『思い出のマーニー』(ジョーン・ロビンソン/作、松野正子/訳、岩波少年文庫)という物語もあって、これは『トムは真夜中の庭で』と同じく岩波少年文庫に入っています。こちらも海辺の村で暮らすことになった孤児の少女アンナが、古い屋敷に住む同じ年の少女マーニーと出会い友だちになるのだけれど、アンナの周りの人々は誰もマーニーのことを知らなくて、マーニーという子は何者なのか? という謎が生まれます。海好きとしては浜辺の情景描写がほんとうに素晴らしくて、長いこと文章を見つめてまぶたの裏に風景を描き続けたくなるような鮮やかさなのですが、それ以上に、アンナの心理描写が秀逸。じぶん以外の人にはうまく説明できないもどかしさややるせなさ、友だちと気持ちが通じ合ったときの沸き立つような喜び、じぶんひとりだけで過ごすときの、胸が締め付けられるような、それでいてなんとも甘やかな孤独感……じぶんの子ども時代を思い出しても、当時はそういう喜怒哀楽が人生のすべてだったわけで、アンナのその時その時の気持ちが痛いほどわかる。じぶんのことのようにも思えるし、アンナがじぶんの身近にいる大切な友人のような気持ちにもなる。そういう感情は子どもならではですよね。でも、大人になってからもそういう気持ちを呼び覚ましてくれるのはやはり名作の持つ力なのだろうなと。とにかく小学生のとき、強烈に印象に残った一冊でした。……ん? 黙ってますね。もしかして?」

「読んでない」

「やっぱり」

2012年8月某日 表参道 CAFE Z. にて ( 文責:capriciu )