水と本とが出会うところ

「このあいだ名古屋へ小旅行に行きましたが、性懲りもなく、結局また本を買ってしまったという話です」

「京都での反省がまったく生かされませんでしたね」

「だいたい旅行の道程に古本屋を組み入れている時点で間違ってると思うんだけど」

「あー。でも仕方がないです。行きたかったんだから。でも今回の旅の目的は本屋じゃなくて、美術館だったんですけどね。豊田市美術館と名古屋市美術館のふたつをまわるという。おまけとして本屋や雑貨屋やカフェに行ければいいかなって感じでした」

「だから美術館の展示を楽しんでおしまいで、本を買う余地なんてないはずだったんだけど……」

「それがうっかりミュージアムショップで購入。本を買うつもりじゃなかったのに、買ってしまいました」

「それも購入したのが『建築と日常』という個人誌で、なぜ、いま、この場所で、それを買うのか、って話ですよ」

「えーと、『建築と日常』はずいぶん前から都内の書店でちょくちょく見かけていて、買ってもいいかなーとずっと思っていたんだけど機会を逃しちゃって。『建築と日常』ってNO.2まで出てますけど、今回買ったのはNO.1。昨年の対談で『中野本町の家』の話になったときにもちょっと言及してます。この冊子、登場する方々が豪華なんですよ。NO.1では堀江敏幸とか、藤森照信とか、岡﨑乾二郎とかでてくるし。保坂和志と塚本由晴の対談も載ってたりしますし」

「でも、なぜいまこの場所でそれを買うのか、って疑問は消えない」

「ま、いいじゃないですか。ネタになるからですって! いまのわたしはネタのために本を買っている気がしてなりません」

「ところでミュージアムショップにあったクリムトサブレが気になる。プレーン味とココア味があるらしい」

「欲しくなっちゃいました」

「でも、あれは買ったら負けな気もする」

「で、翌日は名古屋市内を観光。名古屋市美術館でベン・シャーンの展示を観て、いざ古本屋です。訪れたのはシマウマ書房とON READING。どちらもとっても素敵な本屋でした!」

「シマウマ書房はジャンルも豊富で眺めているだけで愉しい。ひととおりぜんぶの棚を見ました。雰囲気としては西荻にある音羽館にちょっと似てますかね」

「わたしの好きな寺山修司や伊井直行の、惜しくも絶版になってしまった著書が並んでいて嬉しかったです。あと昨年、初めて知った虫明亜呂無の本も数冊。この作家、今年、読んでみようと思っていて。とにかく訪れた記念に何か買おうと、どれにしようか迷ったんですが」

「「記念に何か買う」って考えがそもそも間違ってるんじゃないかという気がするんだけど」

「まあまあ。わたしは『鳩の薄闇』(飯島耕一/著、みすず書房)にしました。この本、実は実家に置いてあるはずなんですが、探しても見つからなくて……」

「捨てたんじゃないの」

「だから買い直しました」

「金で解決しましたね。『ブルーノ・シュルツ全集(全二巻)』(工藤幸雄/訳、新潮社)も置いてあって。あれ欲しいんだけど、予算の都合で泣く泣くあきらめた」

「ほんとに欲しかったです……って、いやいや、あんな重厚な本、持って帰るのがつらすぎますよ」

「唐突だけど、今回の旅のテーマは「水」だと思ってるんだけど」

「唐突ですね。ちゃんと説明すると、訪れた豊田市美術館、どこを見ても谷口吉生建築の素晴らしさを満喫できるんですが、いちばん印象に残っているのは人工池ですね。もともとわたしが水辺を偏愛しているっていうのもあるんですが。今回の旅はずっと逢いたかった人に美術館で合流したんですけど、ちょうど美術館の池の付近で、その人にオクタビオ・パスの「波との生活」という短編の存在を教えてもらいました。『鷲か太陽か?』(野谷文昭/訳、書肆山田)に入っているという短編、水好きとしてはぜひとも読まなきゃ、です。池澤夏樹が編集した『世界文学全集』の「短篇コレクション」にも収められているようで」

「水辺で水の本の話。オクタビオ・パスは『弓と竪琴』の単行本が家にありますよ。版元は国書刊行会で、ラテン・アメリカ文学叢書の一冊。装幀が印象的で記憶に残ってるけど、内容はすっかり忘れてるんでオクタビオ・パスの話を聞きながら再読しようかなと思ってました」

「ちなみにシマウマ書房でわたしが選んだ飯島耕一の本もサブタイトルが「日本の詩/オクタビオ・パス/写真」で、かなりのページをオクタビオ・パスについて論じてるんです」

「そういえばシマウマ書房には『弓と竪琴』の文庫(ちくま学芸文庫)が置いてありました。そんなこんなで「水」という言葉がずっと意識にあったものだから、シマウマ書房でこちらが買ったのは『水と夢 物質の想像力についての試論』(ガストン・バシュラール/著、小浜俊郎・桜木泰行/訳、国文社)でした」

「水に憑かれましたね」

「まづ水」

「ん? なんですかそれ?」

「『至福千年』(石川淳/著、岩波書店)の冒頭です」

「それもシマウマ書房で見つけたんですか?」

「いや、見かけてはいないんだけど。ずっとむかしに古本屋で買ったやつが単行本で家の本棚にあるはず。松浦寿輝が『方法叙説』(講談社)というエッセイで『至福千年』の冒頭についてふれつつ、自身の詩作について書いていて [1]。水に導かれてあれやこれや思い出したりしてました」

「さて、つづいて向かったのが、いまわたしたちがいるカフェの上階にあるON READINGです」

「店内に入ったらお客さんがいっぱいいて。人気の本屋なんですね」

「マイク・ミルズのポスター展をやっていたり、ZINEがたくさん置いてあったり。こちらも飽きない本屋さんでした。で、買ったのは『BOOK THE KNIFE』です」

「佐伯誠が執筆しているというのが目に留まったので。でも佐伯さん、この媒体に執筆しているだけじゃなくて、編集にも携わってるんですね。あとで確認して気づいたけど」

「わたしは佐伯誠の書くものが本当に大好きで。いまはなき『high fashion』(文化出版局)とか、かつてANAの機関誌『翼の王国』で連載していたものとか、いまはもうない書評サイト(?)でも執筆されていました。でも、佐伯さんっていくつかの限られた媒体に単発で文章を発表するだけでしょ? 佐伯さんファンにとっては“情報を仕入れるのがむずかしい”といえば佐伯さんのことか! とピンときます」

「こないよ」

「くるんです!」

「この『BOOK THE KNIFE』って去年の夏に出てたんだね」

「ぜんぜん知りませんでした。不覚!!」

「われわれの情報収集のありかたを見直したほうがいいかもしれない」

「ちょっとサービスで教えちゃいますが、たとえば佐伯さんの文章はこちら [2]で読むことができます。超お得な情報ですね!」

「ものすごく狭いゾーンにだけ響くかもしれませんが。そういえば『BOOK THE KNIFE』で佐伯さんの書いたものを読んだら、ガストン・バシュラールの名が登場して [3]。偶然にもきょう購入した本とシンクロしました」

「ところで、本当はcestaという古本喫茶にも行く予定だったんですけど時間の関係で寄れませんでしたね」

「時間がないというのもあったし、冷たい風がびゅんびゅん吹いて移動に億劫になってしまったというのもある」

「当初の行程に組み込んでいたお店ぜんぶは無理そうなので、スケジュールを立て直そうと休憩したかったんですが」

「シマウマ書房のあたりで一息いれようと」

「が……」

「店がない」

「はじめての場所で、土地勘がまったくないですから」

「あとでON READINGに置いてあった地下鉄東山線沿線の案内マップ(スリーマウントマップ)を確認したら、いっぱいカフェがあるじゃないかと気づいたけど後の祭り」

「で、どうしたかというと」

「ドトールに入ろうとした」

「何やってるんでしょうね」

「ドトールはどこにでもある」

「まあそうですけど。でもあまりに旅情を誘わないですよねドトールって」

「しかも店内に入ったはいいけど、満席で座れず」

「いよいよ何やってるんでしょう」

2012年2月26日 名古屋 metsa にて ( 文責:capriciu )
  1. 事のついでのように思い出されるが、「まづ水。その性のよしあしはてきめんに仕事にひびく。……」という石川淳『至福千年』劈頭の一文をわたしはどれほど愛したことだろう。石川淳の伝法な文体の歯切れの良いリズムはいつものことだが、『至福千年』の場合はなによりもまづ「水」の一語があり、あたかもこの水源の一点からこの長編小説の残りのいっさいの言葉が流れ出してきたかのような印象を与えるところに、この小説のincipit(書き出し)の魅惑があった。水、「まづ水」、とわたしもまた眠りに落ちる直前の黄昏の中で呟いていたのだ。最初期の詩篇の一つ「書く」のincipitは「紙!」というものであり(『ウサギのダンス』1982)、それに続く「はなやかに屹立するこの不毛の一字 わたしが投錨すべき 不可視の一点……」といった部分まで含めて、稚拙なりにマラルメと吉岡実の後にやって来て詩を書こうとする振舞いの歴史的意味を一応は真摯に受け止めようとしている姿勢が窺えるが、わたしにとってここで何より重要だったのは、冒頭の「紙!」に対応して最終行が「水?」という一字で締めくくられることだった。「……だから影だけがまわりだす 石膏の花 遠い雷鳴 触れ 握り 愛撫する手をわたしは持たぬ/水?」というのが詩篇の最終部分なのだが、改行の一拍休止の後に、疑問符付きで「水」の一語を置いたとき、そこに表明されていたものが、不毛の荒れ野とも不妊の子宮とも言うべき「紙」に囚われてあることからわたしを救済してくれるものへの期待であったことは言うを俟たない。「書く」こと、それはわたしにとって要するに、「紙!」から「水?」への旅程それ自体であったのだ。この不確実性の疑問符は、むろん今現に所有していないものへの期待であり、祈念にほかならなかった。(松浦寿輝『方法叙説』講談社、pp.96-97) []
  2. 佐伯 誠 (文筆家) 「蛇に咬まれた、血を吸い出せ!」 []
  3. 川崎長太郎の担当編集だったというのがウソのように思えるが、詩人の平出隆が回想しているのは、1978年の秋のこと。ちょっとした川崎長太郎ブームがあったのはおぼえているが、平出隆はしめっぽい回想をするかわりに、ガストン・バシュラールという思いがけない名を私小説家のとなりに置いてみる。「彼ならばおそらく、蝋燭を前にした夢想と小屋に凝縮される宇宙論と、それに強烈な貧しさのもたらす幸福とについて、どこまでも書き募ったことだろう。」この文章は、岩波書店の小冊子『図書』に載って、『遊歩のグラフィスム』として一冊にまとめられた。(佐伯誠「book hunter’s chronicle」『BOOK THE KNIFE』)
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