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Saturday, April 11

先週に比べたらぐっと体調は良くなりつつある。手帳を見てみたら、昨年の3月も一昨年の3月も体調を崩して病院に行っていた。春は激しい季節だから、激しさに堪えきれないのかもしれない。それでもわたしは春がいちばん好きだ。

きょうは渋谷と表参道のギャラリーでもめぐろうかと思っていたが、夫が体調不良で臥せっており、わたしもやっぱりまだまだ本調子ではないので、出かける意欲がころっと消失。おとなしく家にいることにする。わたしは家にいようと思えばいくらでもいられる性質だと思う。とはいえ雑事をこなすため、クリーニング店と図書館をはしごするなど自宅周辺をうろうろ。朝昼兼用ごはんのためにパン屋でサンドイッチを買って帰り、食べたがこれは失敗だった。空腹に勢いよく流し込んだサンドイッチがもたれてしまい、気分はいまいち。

夫が復活したので、スーパーに買い出しに。その後、夫は書店へ、わたしはいつもの花屋と薬局へ。大輪のアルストロメリアを5輪買い、食卓に飾ったらなかなかゴージャスな雰囲気になった。花弁の色は、中心が桜色、ふちのまわりはじんわりと中から染み出してきたような薄黄緑色。見れば見るほど美しく、ぽうっと眺める。葉のかたちがスッとしているのもよい。

ごはんを炊いて、鯵のひらきを焼いて、油揚げと玉ねぎの味噌汁、きゅうりのサラダ、烏賊の塩辛で晩ごはん。油揚げと玉ねぎは、いちばん好きな味噌汁の具材のひとつだ。山口晃も油揚げが大好きで、(油揚げの入った味噌汁は)最高だ、と『すゞしろ日記』で書いて(描いて?)いる。油揚げと大根とか、油揚げと里芋とネギとかの具が好きらしい。

Sunday, April 12

5時に起きる。窓を開けるとやはりまだひんやり空気が冷たい。そしてふとんに舞い戻る。嗚呼情けなや。4月はまだまだ寒い。7時半に起きて、洗濯物を干して、朝ごはんはホットケーキと珈琲。

冷蔵庫の中にあるカリフラワー、じゃがいも、ピーマン、茄子、きゅうり、トマト、パプリカ、キャベツ、ペコロス、玉ねぎ、新玉ねぎ、長ねぎ、小松菜、グリーンリーフ、レタス、しめじ、舞茸からいくつか使ってお惣菜をつくる。こんなに野菜あるのか、買い過ぎだなあ。今月から真剣に食費を削減しようと決めたので、いまある野菜で来週の半ばくらいまでもたせたいところ。

でも一方で、「毎日の食事を人間のお祭りのように、セレモニーのように大切に」しよう、という決意もしたのだ。ついこの前、心新たに。先日久しぶりに鴨居羊子『カモイクッキング』を読み返したが、この本は日々の食事を心から楽しむ人々の珠玉のエピソードの連なりだ。そして鴨居さんの文章の多大なる魅力に毎回唸る。思わずアハハと笑ってしまうような文章を次々に繰り出しながら、ボードレール、純粋理性批判、スコラ派、尾形光琳、利休、などなど彼女の知的な一面がうかがえる固有名詞にひょこっと出会う。引用したい箇所は山ほどあるが、きりがないのでやめよう。先にちょっとだけひいた言葉も、もちろん鴨居さんの言葉だ。

松浦寿輝『青天有月』(講談社文芸文庫)を読む。まだちびちびと読み続けている。第一章からえんえんと「光」について書き続けるこの散文を半ば自嘲気味に「こんな文章は、実際、いくらでも書き継いでゆくことができる。そして、苦もなく好きなだけいくらも書けてしまう文章など、むろん大したものであろうはずがない」としながらも、

しかしそれにしても、いくらでも書けてしまう言葉とはいったい何なのだろう。

まるで譫言を言い募るようにして書き飛ばした文章の例としてただちに思い浮かぶのは、たとえばスタンダールの手になる日記形式の紀行文『ローマ、ナポリ、フィレンツェ』である。イタリア旅行の途上で出会うあらゆるもの、五感を刺激するあらゆるものが若きスタンダールを誘惑し魅了し、その魅惑に促されて彼は憑かれたように愛の言葉を綴ってゆくのだが、いかさま言葉を費やしても彼はイタリアというこの愛の対象を表現しつくすことができない。ロラン・バルトは、彼が生前最後に書いた文章の中で、このスタンダールの情熱的な旅日記の分析を企てている。

美しい……もっとも美しい……天国的表情を湛えた……このうえもなく稀少な美しさ……もっとも情熱的な繊細さ……。こうした言葉遣いはたしかに空虚であり、その連なりは全体として平板で凡庸な文章となるほかなく、結局そこにはほとんど何も表現されていないに等しい。だからスタンダールは「人はつねに愛するものについて語りそこなう」ともどかしそうに呟くことになるのだが、いかなる堅固な表象にも至りつけぬまま情熱的に「語りそこない」つづけるこのイタリア旅行者における文体論的不能を、バルトは、作家としての才能の乏しさゆえの単なる挫折と見なして断罪したりはしない。この「語りそこない」の実践に深く親密に共感し、共振しつつ、「もっとも美しい」といった無意味な修飾語の単調な反復に籠められているものが、その発話者の感動であるよりはむしろそれ以上に言語の限界そのものの自覚であるといった事態を、彼はほとんど肉感的に、官能的に、追体験し、自分の軀で生きているように見える。できるかぎりの速さで筆を走らせ、書いても書いても書きつくせないようなもどかしさに苛立ちながら、しかもその間終始、自分が発しうるどんな言葉も眼前の現実には追いつきようがないという無力感からも逃れられない、そんな情動的体験のただなかで我を忘れるということが、人間にはたしかにあるのだ。

と、スタンダールの紀行文に対するロラン・バルトの批評を引用しつつ、「光」=自分の愛するものについて書き継いでいく第六章「スタンダールのイタリア」がとても面白い。