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Monday, March 10

少しずつ読み進めているトーベ・ヤンソン・コレクション。『誠実な詐欺師』(冨原眞弓訳、筑摩書房)を読む。

夜、白米、豆腐と小ねぎの味噌汁、焼き魚(鰺)、生姜と冷奴、キムチ、レンコンと人参とペコロスとしめじの甘酢炒め、ビール。

Tuesday, March 11

家の本棚にある丸山眞男を読もうと思って(三冊しかないが)、ひさかたぶりに『日本の思想』(岩波新書)を読んだ。共産主義が共産趣味として受容されることなど考えてもいなかったであろう時代の本なので、とりあげられる事例の数々は古びているけれども、話の核となる部分はいま読んでもじゅうぶんおもしろい。それがはたしていいことなのかどうかは、微妙なところだが。

夜、鶏肉とほうれん草とトマトのキッシュ風オムレツ、くるみパン、赤ワイン。

Wednesday, March 12

大西巨人の訃報。

夜、焼きそばとビールの夕食ののち、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『ベロニカ・フォスのあこがれ』(1982)をみる。

Thursday, March 13

理化学研究所のSTAP細胞論文をめぐる報道がなされるなかで、論文の取り下げに断固反対しているハーバード大学教授の名前の日本語における音の響きが、茶番としてはあまりに出きすぎなところに感銘を受ける。それはそうと、この報道の最中にちょうど読んでいた『UP』(東京大学出版会)に、須藤靖がつぎのように書いていた。

いつも述べている事だが、物理関係で「間違った」研究論文が発表される例は全く珍しくない。それへの反論と修正を通じて全体として研究は進展する。したがって、明確な反論が出た後でも、意地になって以前の説に固執する研究者はほとんどいない(と思う)。それどころか、「あんな論文を書いたのだから、少しは反省しろよ」と言いたくなるほど、臆面もなくまた新たな「間違った」研究論文を次々と発表することで学問の進展に寄与し続けている輩も少なくない。

これはSTAP細胞とは関係なく物理の話だけれど、科学全般に敷衍してよければ、そのうち博士ではなくなってしまうかもしれない小保方晴子博士は、どれほど拙かろうと自力で論文を組み立て、現実としてあらわれた画像のみを使用し、実際に参考にした文献だけを記載すればよかったのである。あたりまえの話だが。仮にSTAP細胞が間違っていたとするならば、すみません、じつは間違ってましたで話は終わる。まあ研究費という金の問題が絡むので、そう簡単に話が終わるわけではないけれども、その方向性はないなという科学者の見解の一致が成りたつということで、いちおうは「学問の進展に寄与」する。

今回STAP細胞の論文が『Nature』誌に発表されたのち、世界中の研究者から「再現でけへんやないか!」となぜか関西弁の突っ込みが入ることによって、STAP細胞の存在が正しいか否かが検証されていくわけだから、科学のあり方自体にとりたてて動揺は生じない。いうまでもなく、問題は杜撰な論文がするっと『Nature』誌への投稿まで進んでしまったことにあるので、狭い話といえば狭い話だ。そこまで大騒ぎする話だろうかと思ったりもするが、メディアとしては論文発表当初に大騒ぎしたので、それと同程度の騒ぎかたをしないと収まらないのかもしれない。

さて、論文執筆者がどういう心理でいま報道されていることをやったのかはわからないが、個人の倫理的な問題であると同時に、外部から指摘されるまえに、もっとずっと前の段階でなぜ止められなかったのかという組織的、構造的な問題だ、というのはもう多くの人が論じているとおり。しかし構造的な問題だというのはそのとおりだと思うけれど、現実問題として実務レベルで防ごうとするのはなかなか難儀なことではないだろうかと思う。分野も、文脈も、影響もまったく異なるが、今回の話題がでて思い出したのはソーカル事件だった。物理学者のアラン・ソーカルがカルチュラル・スタディーズ系の評論雑誌に科学用語とポストモダン用語をちりばめたニセ論文を投稿し、見事掲載されたあの出来事だ。結構話題になったソーカル事件からずいぶん経つけれど、今現在、おなじようなニセ論文がしっかり排除されるような体制が確立されたという話は聞かない。文系と理系では状況は違うかもしれないけれど、教育体制やチェック機能をどのように構築するかはなかなかの難題で、言うは易く行うは難し、なのでは。

Friday, March 14

有給休暇をとって朝から『The Economist』誌を読んでいた。わからない単語をすべて辞書で引いていたら一体じぶんは何を読んでいるのだろうかと途方に暮れ始めた午後三時すぎ、外出する。新宿で買い物を済ませて、高田馬場のとん久でヒレかつ定食を食べる。満腹で苦しい。胃袋を落ち着かせるため、少し高田馬場を歩き、五十嵐書店と三楽書房に立ち寄る。ガストン・バシュラール『蝋燭の焔』(渋沢孝輔訳、現代思潮社)、島尾敏雄『硝子障子のシルエット』(講談社文芸文庫)、山田稔篇訳『フランス短篇傑作選』(岩波文庫)、リリアン・ヘルマン『眠れない時代』(小池美佐子訳、サンリオ文庫)、港千尋『注視者の日記』(みすず書房)を買う。

ところで、港千尋の『写真という出来事』(フォトプラネット)はどこにでもあるという説を以前から唱えていて、古本屋をいくつかのぞくと結構な確率で出くわすのがこの本だ。五十嵐書店に一冊、そして三楽書房には二冊もあった。どこにでもある。

早稲田松竹で相米慎二監督『翔んだカップル』(1980)をみる。公開当時はアイドル映画として薬師丸ひろ子目当てのそれっぽい観客が集まったと思われるが、2014年の早稲田松竹は相米映画として見に来ているそれっぽい観客が集まっていた。

Saturday, March 15

朝、パンケーキとヨーグルトと珈琲。昼、アンチョビと白菜のパスタ、赤ワイン。夜、白米、しめじと玉ねぎとわかめの味噌汁、豚バラと白菜の梅蒸し煮、キムチ、ビール。

Sunday, March 16

吉祥寺にという街に縁がないが、下北沢という街にも縁がない。生涯で訪れたのは今回が4度目くらいか。kate coffeeで昼食ののち、ほん吉、古書ビビビ、クラリスブックス、July Booksと古本屋をめぐる。以下、買ったもの。

『COLORS ファッションと色彩』(京都服飾文化研究財団)、栃折久美子『装丁ノート 製本工房から』(集英社文庫)、三浦篤『まなざしのレッスン 1西洋伝統絵画』(東京大学出版会)、港千尋『記憶 「想像」と「想起」の力』(講談社選書メチエ)、大西巨人『三位一体の神話』(光文社文庫)、いしいひさいち『鏡の国の戦争』(潮出版社)、ジャン=ルイ・ド・ランビュール編『作家の仕事部屋』(岩崎力訳、中央公論社)、アンドレイ・タルコフスキイ『タルコフスキイの映画術』(扇千恵訳、水声社)、蓮實重彦『映画に目が眩んで』(中央公論社)、伊井直行『ジャンナ』(朝日新聞社)、鶴岡真弓『ジョイスとケルト世界 アイルランド芸術の系譜』(平凡社ライブラリー)、ジェリー・オッペンハイマー『Front Row アナ・ウィンター ファッション界に君臨する女王の記録』(川田志津訳、マーブルトロン)。例によって買いすぎた。

100円で手に入れたいしいひさいち『鏡の国の戦争』を読んだら、こんな名著が100円とは何事かと思う。