Monday, October 7
石野裕子『「大フィンランド」思想の誕生と変遷 叙事詩カレワラと知識人』(岩波書店)を読む。北欧の歴史というとヴァイキングくらいしか頭に浮かんでこない浅薄な歴史認識の人間にとって、知らないことばかりでとても勉強になる。フィンランドの近現代史についての収穫はもちろんだが、ナショナリズムという思想的課題に多少の関心があるならば、国民国家の形成とナラティブの関係など、さまざまな思考の応用可能性を孕んだ広がりをもつ論考だと思う。著者自身、論文執筆にあたり「日本における考古学研究と政治の関係を個々の研究者に光を当て、深く掘り下げて追究した春成秀爾の研究を参考にした」と書いているし、たとえ北欧への関心が薄くとも思想や歴史の問題として充分に「愉しめる」のでは、と思う本。
岩波文庫の『フィンランド叙事詩 カレワラ』上下巻を図書館に予約する。
夜、あさりのパスタ。具材は、ほうれん草、パプリカ、玉ねぎ、茄子、ベーコン。
Tuesday, October 8
録音しておいたInterFMの細野晴臣「Daisy Holiday!」を聴き、つづけておなじくInterFMの吉岡正晴「Soul Searchin’ Radio」を生放送で。いまのInterFMはいい音楽がどんどんかかってよい。執行役員ピーター・バラカンのおかげか。
吉岡さんの番組を聴き始めたころ、バラカンさんからメールがきてそれを読み上げていたことがあった。微笑ましい出来事として聴いていたが、しかしこれ、普通の会社に話を置き換えてみるならば、役員から進行中の仕事についてメールがくるようなものである。やだなそれは。
ラジオを聴きながら川口葉子『街角にパンとコーヒー ベーカリーカフェ31軒』(実業之日本社)を読む。この著者の肩書きにいつもある「喫茶写真家」というのは、言ったもん勝ちの感が濃厚でよい。
夜、ビーフハヤシライス、人参と胡瓜と大根のピクルス。
Wednesday, October 9
名文筆家の書いたどうでもいい文章をまとめて、アンソロジーをつくりたい。たとえば、ちょうど読んでいる寺田寅彦『柿の種』(岩波文庫)にはあまたの滋味に富む短文が詰まっているが、つぎのような「どうでもいい文章」がひょこっと現れたりする。
いろいろの学会にはいっている。すすんで入会したものもあり、いつのまにか入れられていたのもあり、また強いてはいらされたものもある。数にしたら二十近い会の会員になっている。
学会にはそれぞれ例会や総会がある。それに一々出席していたらきりがないからたいてい出ないことにしている。
どうも日本人はいろいろな会をこしらえることの好きな国民ではないかという気がする。
これで全文。日本人論に無理矢理着地させているが、どうでもいいような話だ。寺田寅彦をつかまえて、何なんですかこれ? と質問したくなるエッセイである。こういう文章をたくさん集めたい。
夜、鮭のおこわ、じゃがいもとわかめの味噌汁、豚肉と野菜(玉ねぎ、ピーマン、茄子、キャベツ)のハーブ炒め、冷奴とキムチ。
Thursday, October 10
英語の勉強をしていると、英語教育はなにかと喧しい業界なので、英語を勉強することそれ自体の意味について関心が沸く。鳥飼久美子『国際共通語としての英語』(講談社現代新書)は、さらっと読めるけれど示唆に富む論点がいろいろと詰まった本。終盤に書いてあるつぎのような「あたりまえ」の見解は、英語なんてただのツールだなどという意見がいまだ(ますます?)蔓延る状況では、いくら強調してもしすぎではしすぎではないかもしれない。
英語はたかが道具だ、と軽視する人ほど、日本語は微妙なニュアンスがあって特別に難しい、などと言います。しかし、特殊に難しい言語など存在しません。これは現在では当然として認められている言語相対主義の知見です。どの言語も独自の言語世界を有しており、難しさが違うだけで、それぞれに難しいのです。英語もそうです。婉曲な表現もあれば丁寧語もあり微妙なニュアンスもふんだんにあります。英語はストレートな言語だからラクだなどと言う人は、そのレベルの英語しか知らないでいる、というだけのことです。
だから一朝一夕に英語ができるようになるなどいうのは幻想なのだが、本書の主眼はそこではなくて、国際共通語としての英語を学ぶ/教えるにはどういうかたちがよいかという点である。ネイティブ・スピーカーは不満に思うかも知れないが、国際共通語としての英語は、イギリス人やアメリカ人やカナダ人やオーストラリア人の専売特許ではなくなる。
厳密にいうと、英語という言語自体に、英語が本来的に持っている歴史や文化が刻み込まれているので、「文化」を教えない、という表現は正確ではないかもしれません。言語から文化を捨象することなどできないのです。せいぜいが「文化的負荷」をなるべく軽くするくらいでしょう。それでも、「共通語」と割り切って教えることで、英語教育の中身は相当に整理されます。
ただ一口に割り切るといっても、文化的土壌を背負った外国語をどの程度で、というのは結構難しい。勉強をはじめると、単純に整理された枠内で収めておくなんてあまりに窮屈すぎる。
夜、白米、味噌汁(ほうれん草、玉ねぎ、人参、わかめ)、秋刀魚の塩焼き、大根おろし、塩辛、ねぎと生姜をのせた冷奴、カリフラワーのピクルス。
Friday, October 11
夜、バゲット、サラダ(グリーンリーフ、玉ねぎ、きゅうり、コーン)、ザワークラウト、ソーセージ。
Saturday, October 12
寺山修司の展覧会を見にワタリウム美術館に行こうと、銀座線の外苑前駅で降りたら、リブロの洋書ワゴンセールで足が止まる。町に出たら書につかまる。日射しの強い十月とは思えない陽気。
展覧会の前にWORLD BREAKFAST ALLDAYで食事。二ヶ月替わりで世界各地の朝食を出すのがコンセプトになっていて、いま行くとベトナムの朝食を注文できる。ブンボーサオとペリエ。ペリエの瓶を確認すると、フランス産とある。意図せずして、旧植民地の朝食をかつての統治国の飲み物を添えて食べる状況に。
ワタリウム美術館で寺山修司展「ノック」を見る。鑑賞後、いつ訪れてもだいたい座れる近くのスターバックスに寄って休憩。暑いのでアイスのラテを注文し、雑誌『IMA』がスタバと絡んだフリーペーパーを読む。若木信吾と長島有里枝が出ている。
乃木坂に移動して国立新美術館へ。「印象派を超えて 点描の画家たち」展を見る。オランダにあるクレラー=ミュラー美術館の所蔵品を中心に、新印象派のスーラやシニャック、それからゴッホやモンドリアンに至るまでの絵画が展示されている。点描主義ははじめに理屈ありき、なのがおもしろい。そして科学的な色彩理論の理屈が功を奏しているかいまいち微妙、というのも興味ぶかいのだった。
ディビジョニズムの手法がベルギー美術に伝播・継承される流れ(ブリュッセルで結成された「20人会」)は知らなかった。図録の文献一覧にあった加藤有希子『新印象派のプラグマティズム:労働・衛生・医療』(三元社)が気になる。
つづけて「アメリカン・ポップ・アート展」を見る。かなりの賑わい。ポップアートって人気あるのね。広義の20世紀美術に関心をもつようになってから随分経つが、アンディ・ウォーホルに興味をもったことが一度もなく、『ぼくの哲学』なんかも読む気すら起こらないまま現在に至ってしまった。ウォーホルに限らず、アメリカ生まれのポップアート全般に対して、あんまり惹かれるものはないのだが、これは個人的な好み。もちろん美術史の系譜において無視できるものではないので、嗜好とは別に大きな展覧会があるならばこうして足を運ぶのだけれど、見ていて昂揚する感じはない。ウォーホルやリキテンスタインの作品をはじめて見たときに古くさい感じがして、そのときの印象をずっと引きずっているのが原因だろうか。消費社会うんぬんとの結びつけかたも議論としてあまりに凡庸にすぎる気がするし、それ以上の話が出てこないのはどうなのだろう。
渋谷に向かい、焼鳥屋で夕食を済ませてから、ツタヤでDVD3本とVHS2本を借りる。家に戻ってから、寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』(角川文庫)を読む。
Sunday, October 13
新宿から中央線の快速に乗って立川で下車。コスモス畑を見物するために国営昭和記念公園へ向かう。広大な公園のなかをあちらこちら徒歩で移動。最近遠出をするとひどく疲れてしまって、帰りは特急券を買って新宿に戻る。