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Wednesday, May 1

夜明け前に降っていた雨は、明け方過ぎにはやんだ。きょうから5月。

たらこと水菜のパスタ、グリーンリーフとパプリカときゅうりと玉ねぎのサラダ、赤ワインの夕食を済ませてから、「今年は柿の豊年で山の秋が美しい。」という一文ではじまり「今年は柿の豊年で山の秋が美しい。」という一文で終わる小説、川端康成の「有難う」を原作とする映画『有りがたうさん』(清水宏監督、1936年、日本)を観る。主人公はバスの運転手。運転しながら人にも動物にも同じように「ありがとう」「ありがとう」と声をかけてゆくことからついた名前が「有りがたうさん」。はじめての清水宏は、とても難産だった。とにかくTSUTAYAに行っても行っても見事に毎回「貸出中」で、なかなか借りられず、数ヶ月間に涙を飲み続けて、やっと鑑賞に至ったのだった。果たしてこれまでなぜわたしは清水宏をかすめて生きてきたのであろうか、なぜもっと早くに注目しなかったのであろうか、いや、注目はしていたのであるが鑑賞までに数年を要したのであろうか、まったくわたしはなんたるボンクラなんだ、等々、まあ何でもいいんですが、限りない自責の念にかられるほどすっかり打ちのめされてしまうくらいに素晴らしい作品だった。川端に思い入れのあるわたしとしては、5ページにも満たない(新潮文庫『掌の小説』の場合)この物語世界を圧倒的に豊かな細部で押し広げたことにまず感激するし、この妙ちきりんなリアリズムは一体何なのだろう。ほとんどの登場人物は恐ろしいほどの棒読みで台詞を話している。だけどそこには確かにリアリティがある、現実味がある。すべてのシーンが愛しく思い出されるが、陣痛が始まってもうすぐ生まれるから来てくれ、と呼ばれた医師が車を降りて、家の人(夫だっけ?)と話しながら緩い坂道を駆け上がる、そこをカメラ(=車内の目線)が引きながら映し続けるところに三人の男の子がカメラ(車体)に走り迫るシーン、この躍動感と空間把握の仕方には息をのんだ(わたし妙なところで息をのんでいるでしょうか?)。これはDVDもほしいし、6月から近代美術館フィルムセンターではじまる「生誕110年 映画監督 清水宏」も本当に楽しみになってきた。それにしても俳優では上原謙もいいけど桑野通子が最高だ。音楽も素晴らしかった。このメジャーコードの長閑な音楽が、物語の結末を導いてくれるように思えた。

Friday, May 3

先日観た「スヌーピー×日本の匠展」で、今年10月から森アーツセンターで大規模なスヌーピー展が開催されることを知って、すでに前売りチケットが売り出されていて、その前売りチケットには可愛いポストカードがたくさん付いているそうなのでいそいそと買いに行った。家の中でチケットを紛失してしまわないように気をつけねば。

Saturday, May 4

竹橋で下車。東京国立近代美術館で「フランシス・ベーコン展」を鑑賞。フランシス・ベーコンも清水宏と同様、気になってはいたもののいままでかすめて過ごしてきてしまった作家だ。やっぱりわたしはボンクラだわ。いまからやるしかない。表参道に移動し、Annon cookでランチ。カレーライスを食べる。付け合わせとして出される、にんじんとキャベツのマリネがいつ食べても絶品だ。このカフェの食事はとても美味しい。でももうすぐ代官山に移転してしまうそうだ。エスパス ルイ・ヴィトン東京で「Urban Narratives」、恵比寿に移動して、ナディッフで「花代 ベルリン hanayos saugeile kumpels」、「天野祐子 unknown I renown」「ハジメテン庫 〜ビッチビチストレージ!〜」を観る。フィニッシュは東京都写真美術館で「マリオ・ジャコメッリ写真展」、「アーウィン・ブルーメンフェルド 美の秘密」をじっくりと鑑賞。2008年の写美でのジャコメッリ展の図録に収められている、多木浩二の

他の人ならなにも見だせないところに、彼は詩を発見することができた。この能力がなにを主題にしようと表現の本質をなしていたのである。

という言葉を思い返した。わたしは神学生とスカンノ、そして初期作品が好きだ。

夕食は、Rue Favartにて。3階の窓際席で、暮れなずむ空を眺めながら。食事も赤ワインも美味しい。少しだけ、どこか旅に出ているような気分になった。初心にかえって、国書とみすずと某大手出版社の校閲部の話をした。

Sunday, May 5

新宿御苑にてピクニックを行なう。食糧は新宿伊勢丹の地下で調達。サンドイッチ、グリーンサラダ、唐揚げ、蛸とじゃがいものマリネ、そして、おこわをたくさん。脈絡のない品揃え。そしてだいぶ食べ過ぎてしまった。ラグにうつぶせになると、裸の足の裏が焼けそうに熱くなる。持参した本はジョナス・メカス『フローズン・フィルム・フレームズ』、ペソア『不穏の書、断章』、浅田彰『ヘルメスの音楽』、『みすず』5月号、そして洋書を一冊。すべて読めるわけでもないのに。

F・Bはしばしば像を孤立させ物語から切り離してインパクトを強めようとするのであり、逆にいくつかの像を組み合わせる場合は、抑えようもない共鳴(レゾナンス)によってヴァイブレーションを強めることだけが狙いなのである。(『ヘルメスの音楽』「F・Bの肖像のための未完のエスキス」、p.198)