Wednesday, October 24
朝、起きたらなんとなく咽喉に違和感。秋の花粉がどうのという話題をちらほら耳にし始めていて、わたしは今のところ花粉症にはかかっていないのだけど、花粉が飛んでいるらしい日はたまに咽喉にイガイガの症状が出ることもあるためこれは花粉のせいだ、と思うことにする。
『埋れ木』(吉田健一/著、河出文庫)を読了。吉田健一の最後の長編小説ということで気にかかっていたが、氏の娘さんである吉田暁子さんが巻末の解説で「父の愛犬、彦七に捧げられた一作だ」ということを書いていて、そういう事情があったのかと驚き、巻末解説の
犬への、そして動物一般への愛情については私は父に匹敵すると思うので、「埋れ木」最終章の、田口が思いの流れで、失って間もない愛犬が金ぴかの毛並になって走り回るという突拍子もない想像をして、笑いかけて涙ぐんでしまう場面は、限りなく美しいと思うとつけ加えたい。
という結びを読んでから再び本文に戻って読み返せば何ともいえずいい文章だなと、心からそう思えてぐっときてしまって、加えてこの最終章が吉田健一が紡いだ最後の物語りになったのかと思うと重ねてぐっときてしまうのだけれど、そのほかにももちろん
その普通ということに就て自分だけが例外ではない筈だった。そういう点でも人間の精神は強靭、或は柔軟に出来ていてどういうことでもそれを平生の方向に受け取る働きをして大事なのは平生のことに受け取ったのが変ったことであることではなくてそれが平生のことに受け取られることなのである。又それには世界が加担していてどうなることかと思う場合にもそれが必ずどうにかなり、そうでなければそれは死ぬ時でどのような死に方をしても死ぬ瞬間には死が誰にでも来る形で訪れる。例えば工場の壁が倒れて来て自分の一歩手前に散れば自分はどうもないという形で精神はそれを受け取って戦争とか空襲とか命拾いとかいうことはその時精神の眼中にない。併し春の晩に風呂の帰り掛けに夜店が並んだ道を歩いていれば湯で温められた肌に季節を感じ、その場で買えるものが人の賑いと一つになって夜店にその特殊な明るさを与えているのを精神は何一つ割り引きする必要はないと認めて凡てをそのまま受け取るからそれは記憶に残り、これは誰もが経験することである。
というような、単純に文字を追いかけているだけでランナーズハイの境地に陥るような文章だらけでまったくすごいなあ、と思い、何がどうすごいのかよくわからないのだけれど倉橋由美子は『偏愛文学館』のなかで
明治以後の日本の文人で、この人のものさえ読めばあとはなかったことにしてもよいと思える人の筆頭は吉田健一です。
と書いているのだから、喜んで、すごいすごい、と言おう。
夜、ラーメンを食べた。
Thursday, October 25
本格的に体調が悪化し、咽喉が痛むので病院に行って薬をもらう。昼食をとり、薬を飲んでベッドに入って本を読み始めたらじきに眠ってしまった。目が覚めると身体が火照って熱い。子どもの頃、熱を出してばかりいたわたしは高熱を出すと意味不明なことばかり口走って親を相当な恐怖に陥れたらしいけれど、そのほかにも高熱時には決まって口のなかに粘土の塊を詰め込まれるような感覚におそわれたもので、今まさに熱が上がらんとしているのか、久しぶりにその感じがよみがえってきて、子どもの頃はそれが本当に辛くて泣きじゃくっていたため条件反射なのか何なのか、少し涙が出そうになって驚いた。
体調を悪くすると昼下がりから夕方にかけてと真夜中がいちばん辛い時間帯に感じる。もそもそ起き出して熱いシャワーを浴びて精神と肉体を無理矢理しゃっきりさせて、ごはん、キャベツと油揚げの味噌汁、秋刀魚の塩焼き、大根おろし、キムチ、長ねぎとミョウガをのせた豆腐、の夕飯をつくり、キムチって咽喉の炎症に良くないんじゃないか、良いわけないなぁ、でも美味しいなぁ、と食欲はあるので美味しくいただいた。
Friday, October 26
体調が回復してすごく元気になった。もしくは元気になった気がした。夕食にはウィンナーと赤パプリカ黄パプリカ、赤すいか黄すいかは入れずにあとはピーマンと長ねぎの炒飯と、茄子と玉ねぎの生姜たっぷり中華風スープ。炒飯はつくっているときから胡麻油やねぎのいい香りがして食欲が促進されたため、献立選びは成功だった。けれど水とき片栗粉でとろみをつける中華スープはけっこういつも美味しくできるのにとても久しぶりにつくったものだから入れるタイミングを誤りいつまでもとろみがつかず入れ過ぎてしまって、せっかくそれまでいい味にできていたのに最終的に味がぼやけてしまってとてもがっかりした。
街はハロウィン一色で、メディアではハロウィンハロウィン、「昔からこんなに盛り上がっていたでしょうか、ここ1、2年本当にすごいですね!ね!ね!ね!」と騒ぎ立てているけれど、ほんとにそうなのだろうか? かれこれ7、8年は毎年騒いでいるじゃないか、と思えてならないのだけれど。わたし自身は7、8年くらい前にいちばん盛り上がって「ハロウィン大好きです!」とよく言っていたけれど、昨年とか今年はほぼまったくときめかなくなってしまって取り残されたように寂しくて悲しい。まあハロウィンといえばかぼちゃ、かぼちゃといえば何といっても谷中安規ですよね。ね。ね。ね。風船画伯とおかぼちゃさま。
Saturday, October 27
咽喉の痛みも消えて身体も軽く体調良好本日はお日柄もよく晴天なり。会期終了前日の森美術館に駆け込み、「アラブ・エクスプレス展」を観る。砂漠に刻まれた幾何学模様を延々と空撮したジャナーン・アル・アーニ「シャドウ・サイト I」、布で砂漠の中に境界線をひく行為を記録したターレク・アル・グセインの写真作品「Dシリーズ/D IIシリーズ」、戦争を題材にとらないと宣言したものの結果的に戦争を語ることでしか作品が成立し得なかった架空の女性アーティストを描いたムニーラ・アル・ソルフの映像作品「ラワーンの歌」が特に印象に残ったけれど、ムニーラ・アル・ソルフの作品が体現しているように、戦争や地域紛争、民族問題に言及することなしに作品をつくることが本当に困難な場所なのだ、この地域は。それを改めて認識し直した、と鑑賞を終えて述べるのは皮肉なことだろうか。
六本木ヒルズ内のお店で親子丼をいただいてから、オオタファインアーツで「草間彌生 新作絵画」、ワコウワークスオブアートで政田武史「赤の他人列伝」、横井七菜 「Powder」、タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルムで田原桂一展「窓」を観て、恵比寿に移動してNADiff a/p/a/r/tで高橋恭司 「走幻」、長野陽一「BREATHLESS」、MEMで莫毅展「囚獣 – 三个十年」を観て、おそらく8年ぶりに再会した田原桂一の作品がよいのはもちろん、政田武史の油絵がとてもよかった。いつもながら寡聞にしてこの作家についてはまったく知らず、それにしても筆致と色彩と造形のバランスが素晴らしい、と感激しつつ観ていた。
神田古本まつりは一度くらい行ったことがあったかなかったか、そこまでわたしを駆り立てる催しではないため意識の外にあったけれど今年は新しくなった東京堂書店にまだ行っていなかったので抱き合わせで行ってみようということで行ってみたらいきなり掘り出し物に出会ってしまい、ちくま文庫の梨木香歩『水辺にて』(おそらく新刊)を激安価格で購入することができたので来てよかったーと思い至った。
Sunday, October 28
食パンと胚芽パンとジャーマンブレッドを半分ずつ、ソーセージ、グリーンリーフ、コーン、ミニトマト、オレンジジュース、珈琲で朝食兼昼食をとったあと、いつもの花屋に出かけて今週の食卓の花にバラを選ぶ。スイートアバランチェという淡いピンク色をしたバラで、ほかにも色があってただのアバランチェだと白、ピーチアバランチェだと穏やかでシックなピーチベージュのような色で、いま過去の日誌を確認することはしないけれどたしかピーチアバランチェは飾ったことがないのでこれをぜひいつか飾りたいと思っている(めったに入荷されないのだ)。
昨日買った尾仲浩二の『Matatabi』(SUPER LABO)と市橋織江『Gift』(MATOI PUBLISHING)をじっくり眺めた。『Gift』は刊行当初、書店で目にしてから本当に好きで好きで、すぐにも買いたかったのだけれどすでに人気写真家だったしわりといつでも手に入るだろうと思ってぐずぐず買わずじまいでいたら、結局もう何年もその、いつか買うだろうからまだ買わない、が当然の状態になってしまって、このたび思い切って買ったわけだけれどいま売られているものは多くが、もしくはすべてがおそらく改訂新版で、だから初版は実業之日本社から出ているのだけれどわたしが手に入れたものは版元がMATOI PUBLISHINGなのだった。それにしても今年6月に訪れた、ベルギー・ブルージュにあるベギン会修道院が被写体になっているとは知らなかったので驚き、嬉しく思った。 それにしてもわたしは市橋織絵が撮る写真も大好きだけれど尾仲浩二が撮る写真も発狂しそうなくらい好きで、『Matatabi』では日本各地の風景をカラーで撮っていて、少し昔、80年代終盤あたりに撮影されたものかと思いきや撮影時期は2007年から2012年までだそうで、まったく、やはり尾仲浩二の写真は時間を超えるなあ。