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Monday, October 3

『ゴダールと女たち』(講談社現代新書)で四方田犬彦がいわゆる「オリーブ少女」と称される、雑誌『オリーブ』フリークの女性のことを「オリーブギャル」と呼んでいて幾ばくかの波紋を投げかけたとか投げかけなかったとか。同書では、ゴダールをとりまいた女性のひとりとしてアンヌ・ヴィアゼムスキーが登場しており、アンヌといえばやはりブレッソン抜きには語れず、四方田犬彦は十七歳だったアンヌがたちまちブレッソンの磁力圏に巻き込まれたのも無理はなく、いまだその強い残響に包まれている、と述べたうえで

わたしがアンヌから直接聞いたところでは、ブレッソンにはフィルムごとに彼女のような女性が存在しており、彼女たちは「あたかも新宗教のカルトのように」しばしば集いあっているとのことである。またアンヌ自身がこうしたブレッソン・ギャルズの系譜に積極的な関心を抱いており、彼の初期作品『罪の天使たち』に出演した少女たちのその後を追って、『天使たち 一九四三年、あるフィルムの来歴』(二〇〇四)という興味深いTVドキュメンタリーを手がけている。ブレッソンが九〇歳を越えて身罷ったときには、ドミニク・サンダやイザベル・ヴェンガルテンといったこうしたギャルズがいっせいに葬儀に駆けつけ、未亡人を助けたとも聞いた。

と書いており、「オリーブ(Olive)」という、あのロゴを伴って頭のなかで再生される、もうじぶんの体温とまったく同じ温度のお湯に浸かっているような心持ちになるくらいに馴染んだこの語のうしろに「ギャル」とつけられてももはやさして動じるでもなく、わたしにとっては「ブレッソン・ギャルズ」のほうがよっぽど衝撃的であった。

*今日の一枚  Voyage/Ann Sally

Tuesday, October 4

今週も帰り遅く、身のまわりのことを済ませたら今夜はもうさっさと眠る眠る、と思っていた矢先に『本の魔法』(司修、白水社)の図書館返却期限が明日だということを知り、発刊前から楽しみにしていたのに読まずに返せるか! と腹が立って午前0時過ぎから読みはじめて途中30分の仮眠をはさみ26時半に読了。古井由吉、島尾敏雄、中上健次、武田泰淳・百合子夫妻にまつわる話に惹かれるが、司修は児童文学も数多く手がけているから子どもの頃からよく目にしていて、松谷みよ子の『ふたりのイーダ』は司修の挿画抜きには語れない名作として胸に刻まれており、この『ふたりのイーダ』は登場しないものの松谷みよ子の話も出てくる。

Wednesday, October 5

今日は早く帰れたため、夜、『オランダの光』(ピーター – リム・デ・クローン、2003年、オランダ)を観る。映画と睡眠がセットになった話ばかりで恐縮だが2004年の公開時、ユーロスペースで観たときに5分の4くらい寝てしまって、いくら前日、夜更かししていたとしたって5分の4は寝過ぎでしょーというところなのだけど、今回もまんまと夜更かし明けに観ることとなってしまった。しかし「フェルメールやレンブラントが描いた“オランダの光”は実際に存在するのか?」というテーマは抗いがたい魅力を放っていて、オランダの空、雲、光、水、緑をフィルムで見事にとらえつつ、現代美術家のヨーゼフ・ボイスや気象学者や美術史家や農業者といったさまざまな立場の人によって語られる“光についての話”を採集し、特殊な実験を行い光の有り様をシミュレートする、というように各分野を横断して組み立てられたこのドキュメンタリーを今回はしっかり鑑賞しました。ちなみにピエト・モンドリアンについてもっとよく知らないといけない、と反省(ほんの少しだけれど、ドキュメンタリーの中で興味深い言及がなされていた)。

Thursday, October 6

午前中、スティーブ・ジョブズ逝去の報。ある時期まで彼に対しては単なるIT業界の成功者・経営者という認識しかなかったけれど、若い頃にカリグラフィーに没頭していたこと(とそのことがアップルに与えた影響)を知り、大学でのあの有名なスピーチを読んでからというもの、思い入れの深さがすっかり変わった。いつもいつもは思い出さないけれど、折りにふれて生活や思考の片隅に現れるような存在だった。

Saturday, October 8

朝一番で東京都現代美術館。に、行く前に、清澄公園を散歩。木場大橋からスカイツリーが見える。公園は犬でいっぱいだ。東京都現代美術館で「ゼロ年代のベルリン—わたしたちに許された特別な場所の現在(いま)」鑑賞。この夏、猛暑日に原美術館で観たミン・ウォンというアーティストは、登場人物をすべてじぶん自身で演じることで既存の映画を解体、再構築した作品を発表しているが、今回の展覧会にも参加しており、このたびやり玉にあげられていた(という物言いは多分に不適切かもしれないがどことなく笑いを誘うためこうも言いたくなる)のはパゾリーニの『テオレマ』で、ここでもまたアンヌに遭遇するのだった。アンヌ演じるオデッタがラスト近く、身体が硬直し拳が握られる場面、あれを髣髴させるカットがあり、ふむふむと思った。

美術館から少し歩いたところにあるカフェ「Sacra Cafe.」でコロッケランチをサーブされるまで『シネマトグラフ覚書—映画監督のノート』(ロベール・ブレッソン、松浦寿輝訳、筑摩書房)をぱらぱら。ル・クレジオによる序文を読む。

清澄白河ギャラリーめぐりへゴー。小山登美夫ギャラリーで「サイトウマコト 蜜が蜂を呼ぶように。」、アイ コワダ ギャラリーで「池田武史 666 or more malignant songs which should be forgotten immediately after they’re played」、ヒロミ ヨシイギャラリーで「篠山紀信 Untitled 朝吹真理子」、キドプレスで「町田久美展」、タカ・イシイギャラリーで「About A House」、ミヤケファインアートで「柳幸典展」、アンドーギャラリーで「リカルダ・ロッガン Old World」。どの作品も思い出すとすぐに瞼の裏に浮かんでくる。

深川資料館通りに面した古本屋さん2つ。eastend TOKYOBOOKSではフランソワーズ・サガンの『A CERTAIN SMILE』のペンギンブックス版が売られていて嬉しくなって買ってしまったほか、『ジャック・ドゥミ、結晶—クリスタル—の罠』もお買い上げ。ジャック・ドゥミは“ヌーベルヴァーグの真珠”といわれながらもあまり本は出ておらず、これはフランス映画祭2007の特別上映イベント書籍だから貴重である。ちなみに『ある微笑』はサガンの小説のなかではいちばん好きともいえる作品で、今度は原書にチャレンジということで。かつて小池真理子も記していたけれどサガンはじぶんの作品のなかで男と女のことしか語らず、でもそれが良いところで、一時期、新潮文庫のベルナール・ビュフェ挿画×紫がかった濃いピンクの背表紙の一連のシリーズを3分の2くらい読み続け、同じだなー、と思いながら読み続け、でもそれはいい体験だった。

六本木へ移動して、ワコウ・ワークス・オブ・アートで「フィオナ・タン ’Rise and Fall’ and New Works」、タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルムで「森山大道写真集『Accident』インスタレーション展」、オオタファインアーツで「半田真規 六本木モスク」。フィオナ・タンがとりわけよかった。エッセイを読みたい。

佐々木敦がジョナス・メカスと吉増剛造の映像作品について寄せた文章を読みたくて六本木ABCで『新潮』最新号を手にとったら長谷川郁夫による吉田健一の評伝がこの号からはじまっていて、書籍化はいつになるかな。雑誌で読むか単行本で読むか迷うところ。

*今日の一枚  Italian Graffiti/Nick DeCaro

Sunday, October 9

毎週おなじみの常備菜づくり、今日は明日のピクニックのために少し多めに。

ジャン=ピエール・メルヴィル『ギャング』(1966年、フランス)鑑賞。まさに“ギャング”と呼ばれる者たちについてのストレートな描き様にヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミン 子どものための文化史』(平凡社ライブラリー)からの一節

もし強盗たちに、ほかの犯罪者と比べて、ほかにはどこも優ったところがないとしても、それでもかれらにだけは歴史があるのだから、やはりかれらは依然として、犯罪者たちのなかでもっとも貴族的である。強盗の歴史はドイツの、いやヨーロッパ総体の、文化史の一部分なのだ。しかもかれらには歴史があるだけでなく、いまはともかくもこれまで長期にわたって、じつに古い伝統を回顧できる一身分であるという、矜りと自覚までがあった。(中略)数世代にわたって引き続き、国の隅々にまではびこった強盗の大家系がいくつもあって、互いに王家どうしのように、提携し合っていただけではない。また、半世紀も団結を崩さなかった上に、しばしば一〇〇人をこえる成員をかかえた強盗団が、いくつかあっただけではない。何よりもかれらには、古い風俗習慣が、ロートヴェルシュと呼ばれる独自の言語が、名誉や身分にかんする独自の思想が、そなわっていたのであって、これが何百年にもわたり、強盗たちのあいだに継承されてきたのである。

を読み返してみたり。

*今日の一枚  Salle Des Pas Perdus/Coralie Clément