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Monday, June 20

『写真のアルケオロジー』(ジェフリー・バッチェン、前川修ほか訳、青弓社)読了。夜、朝ごはんのサラダとお弁当のためのマカロニが茹であがるまで『花椿』きのうの続き。穂村弘が本や漫画、街、自然、あらゆる場所に生まれいずる詩について著した頁を読んだらいちばん好きな漫画について書かれていて狂喜乱舞した。楳図かずおの『わたしは真悟』。文庫を2セット持っている。ひとつ消失しても悲しみにくれないように。

Tuesday, June 21

朝、モランディの本の話から豊田市美術館でモランディ展が中止になったという今さらの話になり美術館の話から谷口吉生の話になり谷口吉生の話から港千尋が谷口吉生の建築について書いた「先見日記」の話になり「先見日記」を読んでいるうちに会社に行くのをわすれそうになった。

昼、『藤田ミラノ ヨーロッパに花開いた日本の抒情』(中村圭子編、らんぷの本/河出書房新社)。きちんと復習。1967年のインタビュー記事に「ミラノは「先生の絵にモデルはいるのですか?」との問いに「モデルはいません。しいていえば花がモデルです。その季節の花をじっと見つめて、うかんだイメージをまとめるようにしています」と答えている」とあり、先日わたしが抱いた芭蕉の花の絵に対する想いの着地点をひとつ見つけた気がした。

『ションベン・ライダー』(相米慎二監督、1983年、日本)。相米慎二監督特集上映をやりたい。

Wednesday, June 22

パウル・クレーのことをよく知らないので、ちかいうち竹橋の美術館までクレーの絵を観に行く。したがって予習として『ユリイカ』のクレー特集(2011年4月号)を読む。岡崎乾二郎と松浦寿夫の対談でクレメント・グリーンバーグの「イーゼル絵画の危機」について言及されておりグリーンバーグ本はあっただろうかと本棚を探索したのち『グリーンバーグ批評選集』(勁草書房)を発掘。どんな本でも置いてあるなあこの家は!

Thursday, June 23

きょうのお弁当、ご飯+しらす干し+梅干し、卵焼き、鶏肉とほうれん草の炒めもの、蒸したにんじん、プチトマト。佐野洋子の対談集の話に誘発されてそういえば内田也哉子がいい対談集を出していたじゃないかと思って本棚から抜き取ったそれは『ペーパームービー』(講談社文庫)で、開いたら対談集ではなくエッセイで、対談集は『会見記』(リトルモア)だったことを思い出した。面白く読んだはずだったのだけど。とくに北村道子さんとの会話が良くて。『ペーパームービー』は積読していた。

Saturday, June 25

竹橋。東京国立近代美術館で「パウル・クレー|おわらないアトリエ」。

パウル・クレーはわたしがこれまでもっとも気にかけてこなかった画家のうちのひとりだ。まずわたしはクレーの絵が怖くてしかたがない。不気味でまがまがしく、限りなく不安定な心持ちにさせられる。嫌いというわけでは決してないが、できればあまり目にしたくない絵だ。と書いてこれだけの感情を持っているならもっとも気になってしかたがない画家のうちのひとりだ、と言い換えることもできると気づいた。パウル・クレーがしばしば「詩的」と形容されることについても素直に頷くことができない。なにをもって「詩的」というのか。このことについては『ユリイカ』のクレー特集で詩人の與謝野文子が「クレーに対して「詩的」という言い方がなされるとき、それは「絵画的では必ずしもない」ということより、はるかに多くのことを表現していることはむろん自明である。既存の絵画が持ち合わせていたレパートリーから離れて、造形の最小単位が追究されている。その追求こそ、ポエジーが追究する本質をめざしている。あるいは、大きな歴史や物語を表象してきた職業的絵画とは異なる一個人の「私的(パーソナル)な営為である」と記しているのを見つけた。その後も興味深い考察が続き魅惑的な一文で結ばれる、このテキストのなかにひとつの手がかりを見出したい。

このたびのクレー展ではクレーの制作過程に焦点を絞り、具体的な技法ごとに作品を分類して紹介している。制作のプロセスとして「1. 写して/塗って/写して || 油彩転写の作品」「2. 切って/回して/貼って || 切断・再構成の作品」「3. 切って/分けて/貼って || 切断・分離の作品」「4. おもて/うら/おもて || 両面の作品」の4過程が提示される。これに1919年に大量生産された自画像と生涯にかまえた5つのアトリエの写真、非売品として手元に残した、制作段階で次の新たな作品を生み出す起爆剤にもなったといわれる「特別クラス」のなかの作品が加わり、クレー独特の技法と技法が生まれたその場所を追う内容になっている。クレーはこれまであたり前だと思われてきた絵画制作方法に疑問符をつけ、新たな技法を追求した画家である。制作プロセスでは「3. 切断・分離の作品」を面白く観た。一枚の絵画を分断、あるいはいくつかのピースに切断し、その一部分だけを作品として仕立てることにより、そのなかに存在する人らしき人の視線の先に切り離された絵の続きがあってもそれは鑑賞者にはわからない。描かれた人らしき人が首をかしげ、視線を落とし憂いた表情を見せるのは、その向こうに愛しい人がいるせいか。憎い人がいるせいか。そしてクレーはどこまでを作品と考えていたのか。わたしはこの、ある状況を鋏で切り取ってみせた断片というものに興味がある。

徒歩で神保町まで。古書店magnifとボヘミアン・ギルドで古本を漁る。ボヘミアンズ・ギルドで『フリーダ・カーロ 生涯と芸術』(晶文社)を1500円で買い、よしよしこれで国内で手に入るフリーダ・カーロ本のほとんどを所有したはず、とほくそえんだ矢先に目の前の棚に1989年の「フリーダ・カーロ展」のプログラムを見つけ、よしこれも、と思ったら2940円だったかしてこちらのほうが高いのだった。ザ・我慢。その後、gallery bauhausにてロバート・フランク写真展 Part I 「Outside My Window」。ロンドンで撮られた子どもたちの写真を部屋に飾りたい。

夜になっても遊び続ける。渋谷に出て、大学の仲間たちとの同窓会的集まり。大学時代、相当な密着具合ですごしてきた仲間は有り体にいえば家族のような存在で、多少の照れ隠しもふくめて愛憎入り乱れた感情をお互いにもっているだろうけれど、ここへきていよいよ「愛」がかなりの速度で増殖し始め「憎」を浸食し尽くさんとしているのではないか、と我がことながら驚かされたとても良い集まりだった。「愛」を照れずにあらわせるようになってきた、といったほうが正確かもしれない。「憎」を「愛」に転換する術を身につけてきたのかもしれない。わたしの人生における後悔のほぼすべてが大学時代に集中しているという哀しい事実がありながらも、それでもわたしを何年たっても幸福でセンチメンタルな感慨に浸らせる時代であったことを疑う余地はない。とにかくみな大人になったのだ。

さて、夜がふけても遊び続ける。ひさしぶりに明け方に帰宅。空が明るくなってきた。

Sunday, June 26

昨晩この身を満たした幸福でセンチメンタルな感慨が翌日も継続したらそれはそれで厄介だ、と危惧していたが実際に一晩(一晩ではない。3時間くらい)寝たら麦酒の泡のようにはかなくあらかた溶けてしまっていた。やっぱり大人になったのだ。

今週の花を生けて、常備菜をつくるなど。ひじき・切り干し大根・にんじん・大豆の煮物、ショートパスタとポテトとコーンのサラダ。『すゞしろ日記』(山口晃、羽鳥書店)を読む。文章より漫画のほうが読むのに数倍時間がかかる。絵に見入ってしまうので。『ことばの食卓』(武田百合子、ちくま文庫)が読みたくて本棚を探すもいくら探しても見つからず。どんな本でも置いてあるんじゃなかったのかこの家は!

菊地成孔のラジオ聴きながら夜ごはん、近頃これが至福のひととき。あまりに真剣に聴きすぎて箸がストップ。笑いすぎて咀嚼が中断。