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Monday, March 25

二階堂奥歯の『八本脚の蝶』(ポプラ社)を読み返したら、シルヴィア・プラスについて書いてあるのに気づく。

彼女が剥ぎ取られてゆくあるいは脱ぎすててゆくその軌跡が見える。身に纏うものを脱ぎすて跳躍する彼女は空中で自らの身体をも剥ぎ取る、もっと遠くへ。
身体を捨てた彼女は彼女自身をすら脱ぎすてる、もっと高く。
ただ意志が飛び去ろうとする、その軌跡が見える。
二〇歳の時、彼女は睡眠薬自殺を図り、三日目に救出された。
三〇歳の誕生日の朝、彼女はこの詩を書いた。
そしてその四ヶ月後、彼女はガス・オーヴンに頭を入れて自殺した。
彼女の名前はシルヴィア・プラス。
(pp.294-295)

「この詩」と言っているのは「エアリアル」のことで、直前に『シルヴィア・プラス詩集』(小沢書店)から部分を引用している。この日記の約三ヶ月後、二階堂奥歯はビルから飛び降りて自殺した。このあいだエコノミスト誌の書評欄に、シルヴィア・プラスについての本が二冊紹介され興味をもったが、アメリカやイギリスのアマゾンでレビューを確認するとどちらもあまり評判が芳しくないので、とりあえず保留。

Tuesday, March 26

六本木のワコウ・ワークス・オブ・アートで買った『リュック・タイマンス シュヴァルツハイデの向こう』を読む。著者の菅原教夫は読売新聞文化部の人で、小難しい美術批評は展開しないのですらすら読める本。冒頭の「実に久しぶりのアントワープだった。もう二十数年前、ジェームズ・アンソールの展覧会の取材に行って以来である。そのときもまた短期間の旅ではあったが、アンソールが生まれた港町オステンド、メムリンク美術館のあるブリュージュ、ヤン・ファン・アイクの祭壇画があるゲント…と、きら星のような巨匠の面影を宿した都市の印象は、しかし、その短時間のうちにも忘れられない絵画の国との思い出を刻み込んだ」とのくだりで、去年のベルギーを旅した記憶が脳裏によみがえる。ゲントは行ってないけど。

東京都写真美術館ではじまったマリオ・ジャコメッリの展覧会。須賀敦子が『コルシア書店の仲間たち』のなかでジャコメッリについて書いていると教えてもらい、そんな記述あったかなと確かめるために本棚から抜きだした文春文庫を、結局最後まで読み切ってしまった。

いちめんの白い雪景色。そのなかで、黒い、イッセイ・ミヤケふうのゆるやかな衣服をつけた男が数人、氷の上でスケートをしている。まんなかのふたりの人物は、たのしそうに笑いながら、ひとりはこちらを向いていて、もうひとりは、横顔をみせ、ふたりのマントが、ふしぎな三角形をえがいて風に吹かれている。右のはしのずっとうしろに、これも黒い、先端にボンボンのついた毛糸の帽子をかぶった男が、ほとんどふたつ折れになった格好で、むこうに滑っていく。どういう角度から撮ったものか、その帽子ぜんたいが、とがった鉛筆のように細まって写っていて、それがスピード感のあるその男の姿勢とあいまって、なにか、いたずらを発見されて遁走中の小悪魔といった、奇妙なおかしさがある。(pp.32-33)

ジャコメッリの写真展は2008年にも写美でやっている。当時購入した展覧会にあわせて刊行されたカタログをひっぱりだして、須賀敦子が言及する写真を横目にちらちら眺めながら読み進める。

モノクロの写真のそんな絵はがきを、大学の同僚の研究室の本棚に見つけたのは、夏休みに入ってまもないころだった。写真の構図や角度もたしかにおもしろいが、いったいこの男たちがどういう種類の人間なのか、それがいかにも不可解で、私はアメリカ人の同僚に、絵はがきの由来をたずねた。え? と彼女はいって、うらを見てごらん、卒業してスイスに帰った学生が送ってきたのよ、とつけくわえた。へえ、といいながら裏面を見て、はっとした。そこには、マリオ・ジャコメッリという写真家の名につづいて、
 わたしには手がない
 やさしく顔を愛撫してくれるような……
という、私のよく知っている、通いなれた道のように私のなかに生きつづけている詩行が読めたからである。それは私たち夫婦にとって、かけがえのない友人だった、ダヴィデ・マリア・トゥロルドの処女詩集の冒頭の部分だった。
絵はがきをもういちどよく見ると、イッセイ・ミヤケふうとみえたのは、修道士の法衣で、その絵はがきの、笑っているけれど、ちょっとこわそうに足もとを見ているこちら向きの人物は、まぎれもなく(私の知らない)わかいころのダヴィデで、横を向いた眼鏡の男は、彼の親友のカミッロ・デ・ピアツにちがいない。(pp.33-34)

Wednesday, March 27

『サリヴァン、アメリカの精神科医』(みすず書房)のなかで中井久夫が、「私は「ダンテ論」をはじめT・S・エリオットの英文を暗誦していて、それで英語を急速にマスターしていた」と、一夜漬けで覚えたインドネシア語で学会発表してしまう人による、凡人にはあまり参考にならないかもしれない語学学習術を披露していた。

『八本脚の蝶』に感化されて、ボルヘスの『伝奇集』(岩波文庫)を再読中。

Thursday, March 28

好きな場所、空いている美術館。嫌いな場所、混んでいる美術館。

有給休暇を取った木曜日、平日の開館時間を少しすぎたあたりの国立西洋美術館は、ほどほどに空いているのではないかという甘い予想はあっけなく退けられ、ラファエロ展は定年後の老人や有閑マダムや春休み中の学生や何して働いているんだかわからない人たちでたいそう混雑していた。休日に行ったらどうなっていることやら。

マルカントニオ・ライモンディの銅版画《パリスの審判》を前にしたとき、美術に造詣の深そうな見知らぬ男性が連れの女性を相手に、マネの《草上の昼食》のモチーフは右下の三人の人物から来てるんですよと説明しいて、ああそうか、と教えられる。盗み聞き音声ガイド。

ミュージアムショップをのぞくとファイドン社から出ているラファエロの大きな画集が置いてあって(Bette Talvacchia, Raphael)、アマゾンで買ったほうが安いだろうと思って調べたらアマゾンのほうが高い。いずれにせよ五千円以上するので買わなかったけど。

つづけてエル・グレコ展を見物。ようやく訪れることのできたリニューアルした東京都美術館で、重みのある色づかいながら同時に眩い光沢を感じさせるグレコの絵画を堪能する。こちらはわりと空いていて嬉しい。
昼食は併設のレストランIVORYで、スナップエンドウと春菊のグリーンサラダ、いわいどりのソテーと白神あわび茸とトリュフのシャスールソースにワイルドライス添え、ライス、コーヒーのセットを注文。上野恩賜公園のスターバックスで休憩して、満開の桜並木の道を散歩する。

夜、東京オペラシティコンサートホールでジェーン・バーキンのコンサート。開演前のロビーで赤ワインを飲みながらまわりを見渡すと、老若男女、多国籍な客層。中島ノブユキのピアノ、金子飛鳥のヴァイオリン、坂口修一郎のトランペット&トロンボーン、栗原務のドラム、そしてジェーン・バーキンの歌。

Friday, March 29

エコノミスト誌を読んで知らない英単語がまったくなかったという日がいつか来るだろうか。(来ない気がする)

届いた『図書』(岩波書店)をひらくと、岩波文庫から熊野純彦訳でハイデガー『存在と時間』が出るとの広告。全四冊。たぶん買うだろう。

Saturday, March 30

休日出勤の土曜日。夜は、労働で疲弊した身体を回復させるために五反田のフランクリン・アベニューで、ベーコンチーズバーガーとチキンサラダを頬張り、カールスバーグを飲み干す。

昨日の『図書』『一冊の本』につづき、今日は『UP』『みすず』と出版社の広報誌がぞくぞく郵便受けに。

Sunday, March 31

近所のラーメン屋からカフェで珈琲というルートを辿る昼すぎの日曜日。商店街で食料品や日用品を調達し、いつもの花屋で切り花を購入。ちびちび隙間時間を見つけて読んでいたJared Diamond, The World Until Yesterday: What Can We Learn from Traditional Societies? が一向に読み終えられずにいるのだが、あらためて確認したらこの本、500ページ以上あった。キンドルで本を読むとページ数の感覚が麻痺する。内容と文体はわりと平易なのでなんとか翻訳が刊行される前までには読み切りたいところだったが、あっさり訳書刊行に追い越される。キンドルの左下にはあと何分で読み終えるかという指標が表示されるのだけれど、この機能がイカレてしまったのか、まだ半分以上残っているのに、あと30分で読了と出る。無理だろうよ、それは。

夜、木曜日に届いた『装苑』(文化出版局)にまだ手をつけていなかったことを思い出すも、InterFMのバラカンビートの最終回やらTBSラジオの菊地成孔の粋な夜電波やらを聴かねばならず、ワイシャツにアイロン掛けもしなければならず、忙しいことこのうえない。