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Monday, April 23

自殺を選んだ者への追悼文がもの哀しいセンチメントを帯びてしまうのは、書き手の側の心理的な作用によるものなのか、はたまた追悼の対象者が自死を選択したという事実が否が応でもそうさせるのかは審らかでないけれども、二〇〇九年に縊死した加藤和彦についてふれたセンチメント漂う文章につづけて遭遇する。ひとつは『音楽が降りてくる』(湯浅学/著、河出書房新社)で、

退屈に敗北した。
加藤の選んだ死とはそういうものだと俺は思う。漂うべき空を失った煙の行方は闇か。四二年前にこの世に落ちてきたヨッパライも加藤と一緒に天国に帰っていった。

とリリシズムを湛えた文章で締めくくる追悼が書きつけられており、もうひとつは『僕らのヒットパレード』(国書刊行会)に収められた小西康陽の綴るわずか三頁ほどの短いエッセイである。小西康陽の短文は夜の九時半に夕食の支度をする描写ではじまり、加藤和彦の訃報へと流れ込む。献立は、鰺のすり身と水菜、糸こんにゃく、木綿豆腐を材料とした味噌汁。「去年の冬、この味噌汁を作ったとき、その日届いた加藤和彦の『ぼくのそばにおいでよ』というアルバムを聴きながら、独りで夕食を食べた」。と、ここだけを抜きとり引用してみせたならば加藤和彦の音楽を愛する者の追悼として響いてしまうかもしれないけれども、しかしながらその直後に、

けっきょく自分はこのアーティストを好きではなかった。フォークルのメンバーとしてデビューしてから、ミカバンドを始めるまでの間に多くの歌手に提供した美しい楽曲だけが、自分にとっての加藤和彦なのだ、ということを再認識するために、このレコードを手に入れたのか。

と複雑な余韻をのこすレクイエムが奏でられていた。

残業とともにはじまる一週間、往復の通勤に携えていたのは主人公がいつも余計な一言で酷い目に遭っている『河・岸』(蘇童/著、飯塚容/訳、白水社)。

夜、蛤とパプリカと小松菜と玉葱とベーコンを和えたパスタ、ビール。

Tuesday, April 24

前日の夜は現代中国(大陸)文学で、翌日の朝は現代香港文学にふれる。『地図集』(董啓章/著、藤井省三、中島京子/訳、河出書房新社)をめくっていると、

さらに急進的な地図学者グループは、脱領域性の趣旨とは、一種の性質であって個別の場ではない、と指摘する。これゆえいかなる場も脱領域性を有しており、治外法権地となる可能性を持つのだ。

だとか、あるいは

境界は実存世界の模写であるだけでなく、それ自体が実存世界の虚構的造型方式なのだ。境界の制定と実行において、世界は地図を剽窃する。

などという描写があらわれ、先週末に目をとおしていた『蜂起とともに愛がはじまる 思想/政治のための32章』(廣瀬純/著、河出書房新社)を思い出さずにはいられない。

「思想や批評において長らく歴史学によって占められてきた中心的ポジションがいまや地理学のものとなりつつある。
かつてミシェル・フーコーが「世紀はドゥルーズのものとなる」と述べたとき、そこで念頭におかれていたのも歴史から地理へのこの移行だった。ジル・ドゥルーズの仕事は、実際、特にフェリックス・ガタリとの出会い以後、「テリトリー」「領土」といった概念を用い、哲学を「地理」として語ること(「地理哲学」)をその魅力をひとつとしてきた。

しかしながらドゥルーズの哲学と『地図集』を、「地理」というキーワードをもとに真面目な顔をして媒介させるのに躊躇いがうまれるのは、『地図集』の作者が

本書は先ず人の笑いを取るものであらねばならない。本書のアイデアはすべてデタラメ、どの一章としてまともなものはない。

と先まわりしているからにほかならない。

夜、会社の歓送迎会で居酒屋に二時間あまり滞在するという試練に耐える。退屈な飲み会に出席したときは黙して語らず、脳内でウィトゲンシュタインについて考えるのを慣習としているのであるが、ここ数年でもっともウィトゲンシュタインの哲学について熟考した夜となった。

Wednesday, April 25

ちょうど読みはじめた『シネマ2*時間イメージ』(ジル・ドゥルーズ/著、宇野邦一、江澤健一郎、岡村民夫、石原陽一郎、大原理志/訳、法政大学出版局)に

たとえば、『去年マリエンバードで』では、館の厚い絨毯の上を進む静かな歩みは、そのたびにイメージを過去へと導くのだ。

とあったものだから、本日の映画は『去年マリエンバートで』(アラン・レネ/監督、1961年、イタリア/フランス)を選ぶ。
夜、白米、油揚げと葱の味噌汁、秋刀魚の塩焼き、胡瓜と味噌、刻み大根を鰹節とポン酢で、ビール。

Thursday, April 26

『シネマ2*時間イメージ』はドゥルーズがベルクソンの時間論を伴奏者としながらイメージをめぐる思考を奏でている書物であるが、ジェリー・ルイスについて言及している箇所において、おそらくは「日本語訳」においてのみ生じている事態かと思うけれど、ジェリー・ルイスの映画の邦題がどれも原題にはない「底抜け」という表現がもちいられているがために、

つまりそれは感覚運動的脈絡の切断、純然たる光学的かつ音声的な状況の樹立であり、そのような状況はもはや行動へと延長されることはなく、その状況自体へと回帰する回路の中へ入り、つづいてさらに別の回路を働かせるのである。

ときわめて思弁的な叙述がなされたそばから、『底抜けもててもてて』だとか『底抜けいいカモ』だとか『底抜け大学教授』だとか『底抜けコンビのるかそるか』だとか『底抜け棚ぼた成金』だとか『底抜けオットあぶない』だとか『底抜け替え玉戦術』だとかのタイトルがずらりとならび、ドゥルーズの真摯な思索が台なしになっている感たっぷりでたいへんおもしろい。

夜、ビーフハヤシライス、沢庵、ビール。

Friday, April 27

明日からの連休の計画を練っていたら例によって多忙極まるスケジュールにわれながら呆れつつ、ひきつづき『シネマ2*時間イメージ』を読みすすめる。先々週あたりにベルクソンの『意識に直接与えられているものについての試論』を読んでいたこともありベルクソン=ドゥルーズの時間論にどっぷり浸っているなかで、ベルクソンの全集とともに味読していたのが『文学のミニマル・イメージ モーリス・ブランショ論』(郷原佳以/著、左右社)だったものだから「ブランショ」という固有名詞にも身体が反応してしまい、ミケランジェロ・アントニオーニの映画とブランショをならべて論じるドゥルーズの一節に思わずくいいる。

身体の態度は、思考を時間との関係に導くが、このとき時間とは、外部世界よりもさらに無限に遠くにあるあの外部のようなものだ。おそらく疲労は最初にして最後の態度である。なぜなら、それは同時に以前と以後を内包するからである。ブランショがいっていることはまたアントニオーニが示していることでもあって、それは何らコミュニケーションをめぐるドラマではなく、身体の途方もない疲労であり、『さすらい』の背後にある疲労であって、思考に「伝えがたい何か」、「思考されないもの」、つまり生を提起するのである。

夜、炒めたピーマンとゆで卵を添えて、つけ麺鶏塩味、ビール。

Saturday, April 28

ゴンチチのラジオ番組「世界の快適音楽セレクション」をBGMにして『装苑』六月号(文化出版局)に目を落とすことではじまる連休初日は、昼前に小田急線で参宮橋へ移動して「ももちどり」でパンケーキを食したのち、古本屋行脚とばかりに小田急線沿いでは「ロスパペロテス」と「SO BOOKS」と「リズムアンドブックス」、中央線沿いでは「音羽館」と「ささま書店」をめぐり福沢諭吉が一枚消尽するほどの散財で一日が終わる。途中、クワランカカフェで休息のビール。
夜、イエローカレー、ビール。

Sunday, April 29

あえて徒歩圏内をさしおき交通機関を利用して図書館を訪れるのを週末の愉しみのひとつとしているのだが、どこか旧共産圏の東欧諸国の雰囲気を感じさせなくもないいささか殺風景な建物がそばに屹立する、佐藤総合計画が設計した都内の北部に位置する赤煉瓦図書館は、地域住民でないことを少しばかり恨めしく思うほど居心地のよい空間で、晴れた午後のひととき、中庭の席で『パリ ロベール・ドアノー写真集』(岩波書店)をめくっていた。あわせて目通ししていた『パリの秘密』(鹿島茂/著、中央公論新社)もはかったかのように、表紙の写真はドアノーの「斜めの視線」。ところでてっきり団地か何かだろうと思っていた「殺風景な建物」は調べてみたところ自衛隊の駐屯地だった。

夜、白米、油揚げと豆腐の味噌汁、刺身の盛りあわせ(真鯛、中トロまぐろ、ぶり)、卵焼き、南瓜蒸し、ビール。