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Monday, July 4

朝まだき、目を覚ましたら右目にものもらい。会社の帰りに眼科に立ち寄ったのだけれど、空前の眼科ブームの到来を予感させるような混みっぷりに吃驚し、くわえて主治医の女医が子供の患者もかなりの数いるためか親切な説明をしてくれるのはいいのだけれど相手を子供扱いする口調に染まっていて、いきなり「はーい、おめめ開けてくださーい」と言われるにいたっては、さきほどまで山城むつみ『ドストエフスキー』(講談社)のページをめくるという深淵な読書をしていたこちらとしては、知性というものの無力さを思い知る次第である。

夕食、アラビアータ、ビール。『アワーミュージック』(ジャン=リュック・ゴダール/監督、2004年、フランス/スイス)を鑑賞。

Tuesday, July 5

山城むつみ『ドストエフスキー』(講談社)のつづき。夕食、白米とごま塩、鎌倉で買ったウィンナーをマスタードで。小松菜と葱の炒めもの。ほうれん草と卵のスープ、赤ワイン。

『台風クラブ』(相米慎二/監督、1985年、日本)を鑑賞。オカリナは朝吹くものなんです。

Wednesday, July 6

山城むつみ『ドストエフスキー』(講談社)を読了。

夕食、白米、葱の味噌汁、鯵の干物、冷奴、豆腐、茄子の漬物、ビール。食後に小池昌代『井戸の底に落ちた星』(みすず書房)。書評を中心に詩と小説とエッセイが少々。水村美苗『本格小説』(新潮社)の紹介にあたり、

読書をしているのは、「自分」であり、その自分が、どこに移動することもなく、同じ場所で呼吸し、お茶を飲み、ときにはおせんべいなどをかじりながら、本の世界を浮遊していたにすぎないのに、本を読んでいるときには、その自分が消えていて、表紙を閉じたとたんに、その自分が戻ってくる。

と書いているのだが、水村美苗もまた辻邦生との往復書簡『手紙、栞を添えて』(朝日新聞社)のなかで

身を焼く恋、王侯貴族の栄華、貧民の屈辱、平凡な日常の悲哀、戦争の苦しみ――といった、人間のさまざまな悲喜劇を、ベッドの上に寝ころんでお煎餅をかじりながら読む姿。その姿は滑稽であるだけでなく、何か人類に対して失礼な感すら与えるかもしれません。でもまさにそれこそが文学なのです。

と書いている。煎餅つながり。

Thursday, July 7

七夕。ものもらいはほぼ治癒した。「しっかり目薬をつけていれば三日くらいでよくなります」という眼科の女医の述べるとおりの展開となったのだが、女医はそのときつづけて「もうどっちの目が腫れていたのか忘れてしまうくらいになりますよ」と助言するのだが、それはない。というかたった三日でどっちの目が腫れていたのか忘れてしまうというその状態はべつの病気を心配したほうがいいと思われる。

『みすず』(みすず書房)と『UP』(東京大学出版会)が届く。『みすず』の表紙の写真が高橋万里子になっていた。このての冊子をひらくとよく知らない出版社の広告を読み込んでしまう癖があって、今回気になったのは三元社の刊行する鈴木義里『大学入試の「国語」 あの問題はなんだったのか』。副題がいい。あの問題はなんだったのか。

夕食、ビーフカレー、ビール。二階堂和美の新作をiTunes Storeで購入した朝、二階堂和美のライブをUstreamで視聴した夜。

Friday, July 8

『みすず』の執筆者紹介で外岡秀俊の肩書きが「元朝日新聞編集委員」となっていることにいまさら気づき、今年の5月に退職していたことを知った。

新緑に包まれた福島の山々に、大樹にからみついて咲く藤の花房が見事です。黄緑と薄紫で織り成す銘仙のように艶やかな景色を眺めながら、これほど多くの藤房を見たことはなかった、と思いました。

といつもながらの流麗な文章ではじまる美文家による連載「傍観者からの手紙」は、震災の話で埋まっていた。

美容院で髪を切る。美容院で雑誌を読むというのは視力が良好かコンタクトレンズ使用者に向くものであって、眼鏡着用者にとってはぼんやりした字と写真を眺めるという苦行にも似た行為であり、サービス精神から鏡の前に雑誌を置かれても『OZ magazine』の表紙のKIKIの相貌は霞むばかりである。

パトリック・モディアノ『失われた時のカフェで』(平中悠一/訳、作品社)を読了。夕食、白米、葱の味噌汁、鮭の塩焼き、茄子の漬物、肉じゃが、ビール。『装苑』(文化出版局)8月号を読む。『本を作る男 シュタイデルとの旅』(ゲレオン・ヴェツェル、ヨルグ・アドルフ/監督、2010年、ドイツ)を鑑賞。

Saturday, July 9

学術書のようなぱっとしない装丁でおなじみの「ローベルト・ヴァルザー作品集」がおもしろい。第2巻の『助手』(若林恵/訳、鳥影社)を読む。訳者があとがきで小説の舞台がスイスにもかかわらず使われている通貨の単位がドイツ・マルクであることに読者が違和感を覚えたのではないかと書いているのだが、読者であるわたしはそんなことよりつぎのまったく意味のわからない喩えのほうが気になってしかたがない。

そして正面のあの娘、彼女は艶っぽい女か行儀指南役か、はたまた世間が豊かで暖かい両腕で素敵な花束のように人々に差し出す様々な経験を敵視する、行儀よく潔癖な、小さな観賞用植物か人形なのだろうか?

夕食、白米、お刺身、チキンカツ、焼き茄子、胡麻豆腐、トマトと胡瓜とセロリとイカのサラダ、ビール。トマス・ピンチョン『V.』(小山太一+佐藤良明/訳、新潮社)を読みはじめる。

Sunday, July 10

今日の衝撃。マンションの屋上から見える「スカイツリー」。あれがスカイツリーだろうと思っていた建築物がスカイツリーではなく、まったくべつの方角にある建築物がスカイツリーだった。半年以上スカイツリーだと思っていたものがスカイツリーではなかった。

雑用の日曜日。食料品や日用品の買いものついでに、花屋でホテイアオイ、コリウス、日日草、黄色の薔薇を買う。家計簿上、花や植物は「日用品」として計上。日日草は強い毒性があるらしいので「食料品」としては計上できない。夕食、鰹節と海苔をのせた冷奴、キムチ、鰯の塩焼き、ビール。朝にホットケーキをたらふく食べて昼はカレーとナンをたらふく食べたので夜は抑えめ。菊地成孔のラジオを聴きながらピンチョン『V.』のチャーリー・パーカーについて書いている箇所を確認してみたりするなど。

チャーリー・パーカーの魂が無慈悲な三月の風に散ってから、ほぼ一年になる。その間、彼を語るナンセンスな言葉が(会話にも論評にも)大量に出回った。この晩以降も多くのナンセンスが出回ったし、まさに今も書いている者がいるかもしれない。戦後のジャズシーン最大のアルト奏者である彼の死に際して、ファンのあいだに、一種不思議な拒絶の意思が湧き起こった。人が死ぬという最終的な冷徹な事実を受け入れるのを渋り、拒否する気持ちが、一部狂信的なファンを駆り立て、あらゆる地下鉄駅に、舗道に、公衆便所に、Bird Lives. の落書きを溢れさせた。今晩の〈Vノート〉の客層も、控えめに見積もって一割ほどは、バードの死をいまだ信じていない夢見がちな連中だったろう。バードは死なず、マクリンティックの姿で再来した、と。