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Monday, June 13

行き帰りの通勤電車と昼休みに読んでいたのはウリオール・ブイガス『モデルニスモ建築』(稲川直樹訳、みすず書房)。五千円オーバーのみすず本は図書館で借りた。一九世紀終盤から二〇世紀初頭にかけてカタルーニャ地方で流行した建築様式を追った著作で、「天才ガウディという異様に孤立した存在によってこの運動を評価する傾向」や「その(ガウディ)の周辺には無能や奇矯やマンネリしかない」といった見解に対して、バルセロナ市内に群生する特殊造形のさまざまな建築を紹介しながらガウディひとり勝ちに釘を刺す本なのだから、「アントニ・ガウディ」という特権的な固有名詞以外にも目を配るのがこの本の正しい読書といえるのだろうけれど、しかしながら最後まで私の記憶力にかろうじて留まりつづけたのはやはりガウディだけという著者の苦労を台なしにする結果に。たとえばガウディのライバルとしてならべて論じられるドメネク=イ=ムンタネーという建築家の名を来週まで憶えていられるかはなはだ自信がない。訳者あとがきのなかで『近代都市バルセロナの形成 都市空間・芸術家・パトロン』(慶應義塾大学出版会)と岡部明子『バルセロナ 地中海都市の歴史と文化』(中公新書)に言及されていて、どちらも読んでみようかなと思ったところでふと記憶を辿っていったならば後者はすでに刊行当時読んでいた。襲いかかる記憶力の不安。

夜ごはんは、白米、葱と豆腐の味噌汁、鰺のひらき。鰺のひらきがやたらでかい。晩酌にはカクヤスでどどっと注文したキリンラガービール。大泉啓一郎『消費するアジア 新興国市場の可能性と不安』(中公新書)の序と跋に目をとおす。

Tuesday, June 14

大泉啓一郎『消費するアジア 新興国市場の可能性と不安』(中公新書)のつづき。国民国家単位ではなく都市という括りで経済分析を施していて、本書の鍵となる語彙に「メガリージョン」というのがあり、衛星写真を見て夜間の光源の強さと広がりから世界経済をリードする地域を割り出し千億ドルを超える地域を「メガリージョン」と定義しているらしく、リチャード・フロリダ『クリエイティブ都市論 創造性は居心地のよい場所を求める』(井口典夫訳、ダイヤモンド社)に詳しい説明が書かれてあるらしいのだが、その読んでいない本についてアマゾンで調べてみたら大前研一や森ビル社長が推薦していて、それはまあよいのだが、わたしは『消費するアジア』のなかで好意的に言及されている、おなじく都市を軸に考察をすすめたサスキア・サッセンの『グローバル・シティ』(伊豫谷登士翁ほか訳、筑摩書房)に関してアマゾンのカスタマーレビューで山形浩生が酷評を載せているのを思い出してしまって、「国にはやっぱり重要な意味があるのだ」という指摘のほうに一票を投じたい気分になったりして、ともかく「メガリージョン」という言葉は私の知らないところで浸透しているのだろうか。ところで『グローバル・シティ』の原書がなぜか自宅の本棚にあり、一体いつ買ったのかさっぱり思い出せず、雑誌『現代思想』(青土社)がサッセンの特集を組んだときに購入したのかもしれないのだけれど、となると今から八年以上前の話になるわけで、記憶はぼんやりとするだけで判然としないのにくわえて、この『グローバル・シティ』の原書は読んだ形跡がまったくなく、一生読まずに終わるような気がする。

夜ごはん、醤油ラーメン(もやし、ハム、長葱、コーン、ピーマン、海苔)、麦酒。『パゾリーニ詩集』(四方田犬彦訳、みすず書房)を少し。冒頭に載っている四方田犬彦による解説を読んでから就寝。

Wednesday, June 15

みすず書房の本ばかり読んでいる。

『別れの手続き 山田稔散文選』(堀江敏幸解説、みすず書房)。それにしてもこういうちょっとした解説やら紹介の短文で堀江敏幸に遭遇する頻度はかなりのことになっており、堀江敏幸はこまごまとした仕事を断れない質なのかそれとも積極的に好んでいるのかと想像したりするのだが、そういうこまごました文章が『回送電車』(中央公論新社)としてまとめられているのだから「割はあっている」とも言えなくもないけれど、『象が踏んでも 回送電車Ⅳ』(中央公論新社)にある「雪国の奇蹟」を読むかぎりでは押しの強い編集者のまえでは原稿依頼を断り切れない性分が窺われる。しかしそうした状況を滋味に富む文章に流し込み、

なにかが起こるまでの長い待機に耐え抜く意思と、それを禁欲的ではなしにだらだらつづけて飽きないある種の鈍さを備えた人間こそ物書きと呼ばれうるのだと考えている者として、その理想にいくらかでも近づくために、一日一日を「緊張感のあるぼんやり」のなかで過ごしたい。鈍さはこの経験とともにさらに鍛えられ、なにかをかならず呼びさましてくれるのだ。

としれっと堀江敏幸は書くのである。

『ブルータス』の本屋特集で気になっていた品川駅構内エキュートの本屋PAPER WALLへ。オリオン書房がやってる本屋のようだが雰囲気は青山ブックセンターをぎゅっとこぶりにした感じ。世のなかの本屋を山尾悠子の小説が置いてある本屋と置いてない本屋に分類するならば、PAPER WALLは置いてある本屋であった。品川の駅ナカに山尾悠子。磁場が狂いそうである。図書館で借りたものの手元に置いておきたかったクラフト・エヴィング商會『おかしな本棚』(朝日新聞出版)を購入。ブックカバーもつけてもらった。

夜ごはんは牛丼。炒めた玉葱とおいしい牛肉を白米にのせて。おかずに豆腐とキムチと麦酒。先生、麦酒はおかずに入りますか? 『ローラ』(ジャック・ドゥミ監督、フランス/イタリア)を鑑賞。

Thursday, June 16

京都から東京に巡回してきたパウル・クレー展の予習として『ユリイカ』(青土社)のクレー特集号をめくる。岡崎乾二郎と松浦寿夫の対談にいろいろ示唆を受けつつ、岡崎乾二郎の髪型がスネ夫みたいなことになっている事態に気をとられつつ、あるいはふたりの服装が似かよっている事態にも気をとられつつ読んでいた。

夜ごはんはグリーンカレー。キリンラガーと麦とホップを体内に注入。『パサジェルカ』(アンジェイ・ムンク監督、ポーランド)を鑑賞するものの目が覚めたら映画は終わっていた。存在の耐えられない眠さ。

Friday, June 17

通勤読書は人に紹介しておきながら内容をほぼ忘れた田中克彦『ことばと国家』(岩波新書)の再読。1981年刊行の黄色い岩波新書。「最後の授業」批判は憶えていたけれど丸谷才一の言語観を批判している箇所はすっかり記憶から飛んでいた。あとフランスの国土ではフランス語以外のいくつもの言語(フランコ・プロヴァンス語、オック語、バスク語、カタロニア語、アルザス語、フラマン語、ブルトン語)が話されているにもかかわらず無視されていることにふれながら、

ヨーロッパの人たちでさえ、「フランスの少数民族」と、かれらの住む「ヨーロッパ内植民地」に注意をそそぐようになったのは、ごく最近のことである。それはなぜ植民地と呼ばれるのか。フランス政府は、たとえば危険のともなう原子力発電所を、これら非フランス語の話し手の住む辺境地帯に建設することによって反対運動をかわそうとしてきたからだった。つまり、原発建設は、これら非フランス語の母語の話し手たちへの差別を一挙にあらわにするきっかけを作ってしまった。

なんていう部分は時期が時期だけにいやがおうでも印象にのこる。

帰りにツタヤに寄ってDVDを四本借りる。とうとうTポイントカードをつくってしまったのだった。しかしファミマやドトールで「Tポイントカードはおもちですか?」と店員に問われたら断固として「もってません」と応じたいのはどうしてか。

夜ごはんは寿司。といっても「寿司でも食い行っか〜」(ミルクチャン)とばかりに外食へと向かったわけではなく「ちよだ鮨」で買ってきたものを家で。麦酒。細野晴臣「HoSoNoVa」を聴きながらみすず書房の近刊紹介の「出版ダイジェスト」を読む。

Saturday, June 18

美術館とギャラリーめぐり。「藤田ミラノ展」(弥生美術館)、「ベールを脱ぐイヴ・サンローラン/ジャンルー・シーフによるポートレート展」(東京日仏学院)、「青山悟/芸術家は人生において6本の薔薇を真剣につくらねばならない」(ミヅマアートギャラリー)、「加藤泉/Paintings and Sculptures」(アラタニウラノ)、「瀬戸正人/binran」(BLDギャラリー)、「レイモン・サヴィニャック展」(ギンザ・グラフィック・ギャラリー)、「鈴木知之/Parallelismo」(リコーフォトギャラリー)。日仏学院と日仏会館の区別がつかず、いつもまちがえる。日仏学院の設計は坂倉準三だが、いつも「坂倉」を「板倉」とまちがえる。まちがえてばかりの人生。

途中寄った飯田橋のhive cafeで『文庫ガール』なるフリーペーパーを入手する。今後、単行本ガールや大型本ガールの登場を期待したいが、たぶん出現しない。有楽町の三省堂で『Meets Regional』(京阪神エルマガジン社)と『花椿』(資生堂)を購入。夜ごはんはテイクアウトしたモスバーガーと麦酒。きょう読んだ活字媒体は『文庫ガール』くらいか。

Sunday, June 19

映画と昼酒。『アナとオットー』(フリオ・メデム監督、1998年、スペイン)を観ながら麦酒。『隣の女』(フランソワ・トリュフォー監督、1981年、フランス)を観ながら白ワイン。夜ごはんは、どういう成りゆきか横浜の大さん橋から出航する(で、また二時間ほどで大さん橋に戻ってくる)船舶で中華料理のバイキング。満腹。横浜までの行き帰りには、積読放置状態だった7月号の『装苑』(文化出版局)、きのうまとめて買った6月号と7月号の『花椿』(資生堂)を。『花椿』の連載で宮下規久朗の書く、

知識の有無は美術作品の鑑賞に深く影響する。余計な知識などない純粋な目で見たほうが、作品がストレートに心に入ってきてよいという意見もあるが、それは大きなまちがいである。もちろん、何の知識がなくともすばらしいとわかる作品もたくさんあるが、大半の美術作品は、詳しい情報でなくとも、ある程度の知識があったほうが、そのよさも深さも感じることができるものだ。知識によって観照眼が曇らされるなどということはありえない。逆に、まったく知識がなければ、よさどころか、存在も認識できないことがある。

に共感。帰宅途中、ファミマで「(Tポイントカードは)もってません」とこたえる。もってるけど、いつもの癖で。