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Saturday, August 31

国立新美術館で「クリスチャン・ボルタンスキー Lifetime」を観てから、「話しているのは誰? 現代美術に潜む文学」を観る。小林エリカの展示が大変よかった。北島敬三の「USSR」シリーズをじっくり観られたのも幸せだった。

お昼、美術館内にあるBRASSERIE PAUL BOCUSE Le Museeにて、骨つきチキンの赤ワイン煮、冷製コーンポタージュスープ、グリームブリュレ、赤ワイン。チキンの赤ワイン煮についているグリーンピースが食べても食べても減らない。とても美味しいのだが、とにかく減らない。無限にお皿のなかに存在するようだ。

森美術館で「塩田千春展 魂がふるえる」を観る。塩田千春が泥をかぶり続ける映像が70年代のアングラパフォーマンスビデオのようだなと思ったが、制作年はたしか1997年頃だった。塩田千春が注目されるきっかけとなった2001年の横浜トリエンナーレをわたしは観ている。天井付近に吊り下げられたワンピースにシャワーを浴びせるインスタレーションだったが、なんだろう、その頃のわたしは草間彌生に夢中で、草間彌生のインスタレーションが大好きだったからかもしれないが、塩田千春はいまいちのれなかった。そしたらきょうもやはり、いまいちのれなかった。自意識の強さが鬱陶しく思えるからだろうか、しかし、それは草間彌生だって同じことだ。しかし、また塩田千春の展示は観たいと思う、このいまいち感が何なのかを追求するために。

上野に移動し、国立西洋美術館で「モダン・ウーマン フィンランド美術を彩った女性芸術家たち」(常設展内で展示)を観る。数ある作品のなかで光っていたのは、やはり、ヘレン・シャルフベックだった。今回の収穫はリトグラフ。晩年のシャルフベックが自身のこれまでの作品を再構築すべく、リトグラフを用いて新たな制作を行ったことは2015年の東京藝術大学大学美術館の展示で知ったのだけれど、その時リトグラフなんてあっただろうかと記憶がおぼつかない。帰ったら図録を確認しよう。

それはともかく晩年のリトグラフでは、元の画が極めてデフォルメされ、まるでアニメ画のようだった。これには驚いた。シャルフベックは日本のアニメも先取りしていたのか。

移転した古書ほうろうを初訪問。変わらない充実の品揃えが嬉しくて、本3冊、レコード2枚買う。

夜は、毎年恒例、上野精養軒のビアガーデンにて、枝豆、フライドポテト、シーザー風生ハムサラダ、鶏の唐揚げ、ビール。ビアガーデンのある屋上からいつものように刻々と変化していく空と不忍池の景色を眺める。

帰宅して、シャルフベックの図録を確認したら、やはりこの展覧会では晩年のシャルフベックが自身の作品を再解釈するのにあたりもともと好きだったエル・グレコを再発見し傾倒していった側面に光をあてており、リトグラフについては基本的に言及されていないことが確認された。

エル・グレコの実作品を目の前にせずとも、シャルフベックはこのようにして自分なりのエル・グレコ作品を作り上げることができた。柔らかな色彩に転換され、キュビズムのスタイルで描かれたこれらの作品は、単なる模写ではなく、これもまたシャルフベックによる「再解釈」なのであった。

(『ヘレン・シャルフベック ー 魂のまなざし』求龍堂、p.135)

Sunday, September 1

わたしはそれなりに、自分の人生を自分でコントールしてきたと思う。それはそうすることが許される環境にいたことと、自分をとりまく物事の全容がほぼわかっていたからこそ可能だった。しかし、そうでない時もある、ということをここ数ヶ月で痛感した。人生には、何もわからないままで物事を進めないといけないときもある。手探りで進んでいく場合、とにかくその瞬間その瞬間で、自分の知性と良識に従って、最善の判断をするしかない、最善の判断をした、と思うしかない。それしかない。今年はもう毎月毎月、やっと今月が終わった、さあ来月こそ気持ちを切り替えて進もう、と思うという、そのくり返しだった気がする。そして9月が始まる。