Monday, April 1
午前5時前に起床。朝の読書、木村敏『時間と自己』(中公新書)。東京都写真美術館で開催中の志賀理江子「ヒューマン・スプリング」展におけるアーティスト・トークのなかで、志賀理江子は木村敏の著作を引用しながら「永遠の現在」というキーワードを拾っていた。永遠の現在って、写真がまさしくそうなんじゃないかと。写真家からは出典についての具体的な言及はなかったので、どの論考からの引用なのかわからずじまいだったのだが、木村敏は所説を変奏させながら複数の著作に似たようなことを書くので確証はもてないものの、おそらくは『時間と自己』だろうかと勝手に推測して、再読している。
永遠が日常性と重なって意識されるとき、それはかならず、永遠の瞬間、永遠の現在という姿をとる。未来永劫とか無窮の過去とかいうことも表象はできるけれども、それは単なる観念にすぎないか、さもなければ現在の直接的体験としての永遠を二次的に未来や過去に投影したものであるかのいずれかである。永遠が永遠としての実感を伴ってわれわれに直接に現前するのは、いまこの一瞬において以外ではありえない。
引用元を確認するためにはじめた読書だったが、ただいまハイデッガーの『存在と時間』をちびちび読んでいる身としては、ハイデッガー哲学を理解するための補助線として、木村敏の筆致の意義深さにあらためて感銘をうける。
会社からの帰り道は、朝の晴天とうってかわって、冷たい雨が降ったせいでひどく肌寒い。晩ごはん、白米、わかめの味噌汁、豚肉と春キャベツと紫玉ねぎの炒めもの、冷奴、もずく、ビール。
夜、Billie Eilish「When We All Fall Asleep, Where Do We Go?」を聴く。
Tuesday, April 2
朝の読書、五十嵐太郎『ル・コルビュジエがめざしたもの 近代建築の理論と展開』(青土社)を読む。先日、国立西洋美術館で見た「ル・コルビュジエ 絵画から建築へ―ピュリスムの時代」展の復習がてら。
京都のカフェefishが閉店してしまうと知る。
きのうは新元号発表の話題で日本国内の報道は埋まっていたけれど、世界史の観点からすればほとんど意味をもたないように感じるし、書類等における事務処理がいちじるしく煩雑になるので、元号などやめてしまえばよいと思うものの、そう簡単にばっさりと退けられないのは、よくも悪くもつぎのような思考があたまの片隅に根を張っているからかもしれない。以下、柄谷行人『終焉をめぐって』(講談社学術文庫)より。
そうであれば、こうした元号による区分を一切すてて西暦で考えればよいかというと、そういうわけにはいかない。明治の文学というものを、たんに十九世紀や二十世紀といった概念で語ってしまうことはできないのだ。そこには、明治という固有名をとると消え失せてしまうような何かがある。しかし、それは、日本に独特の位相があるとか内部的に閉じられた時空間があるという意味ではない。その逆に、この固有名は、内部的な完結を許さないような外部との関係性をはらんでいるのである。しかも、明治的とか大正的といったイメージは、厳密に天皇の在世期間と対応しているわけではない。われわれが「明治的」とか「大正的」と呼ぶものは、ある関係構造を象徴するかぎりで確かに存在すると言っていいのだし、それを廃棄することは、そのような関係構造を切り捨ててしまうことになるのだ。
もう一つ大切なのは、西暦が単なる順序数であるかにみえて、それ自体物語的な文節をはらんでいることである。そもそもそれはキリスト教の物語によって意味づけられている。さらに、百年(世紀)や千年(千年王国)には特殊な祭式的な意味が付随している。たんなる順序数であれば、「世紀末」などありえないだろう。だが、その観念が、出来事に「世紀末」的な意味を与えるだけでなく、事実「世紀末」的現象を生みだしてしまうのである。そうでなくとも、歴史を十八世紀、十九世紀、二十世紀といった百年の区分でみることにおいて、すでに物語的な区切りがなされている。われわれが「明治文学」というのと本質的な違いはない。つまり、西暦で考えるとき、われわれはあるローカルな歴史を普遍的なものと見なす思考に閉じこめられてしまう。さらに、こうした「普遍性」は、われわれがどのような言説空間に属しているかということを忘れさせてしまうのだ。
会社の行き帰りは冬物のコートが必須の寒さ。東京の桜は見頃を過ぎはじめているのに、完全に春到来とはならない。晩ごはん、たこと紫玉ねぎのリゾット、ベビーリーフ、赤ワイン。食卓の花瓶に5本のチューリップを飾った。
夜、Igor Levit「Life」を聴く。
Wednesday, April 3
昨晩はやや遅くまで起きていたので、早起きできず。午前6時にベットから抜けでて朝食の準備をする。
寒の戻り。戻りすぎではないかと訝るほどの風の冷たさ。冬物をクリーニングに出すタイミングの見極めがむずかしい。
晩ごはん、ほうれん草と鶏ももハムのパスタ、ビール。
ツモリチサトのブランド事業が終了するとのこと。
夜、The Cinematic Orchestra「To Believe」とStella Donnelly「Beware of the Dogs」を聴く。
Thursday, April 4
朝の読書、『ル・コルビュジエがめざしたもの』を最後まで。朝日を浴びた桜並木が美しい。
晩ごはん、鶏肉と万能ねぎをのせた温かい蕎麦、ほたるいかの沖漬け、ビール。
夜、Jacques Loussier Trio「Play Bach No.1」を聴く。
Friday, April 5
朝の読書、丸山直起『ホロコーストとアメリカ ユダヤ人組織の支援活動と政府の難民政策』(みすず書房)。
晩ごはん、ベーコンとスナップエンドウとしめじのバターパスタ、アボカド、ビール。
『不思議惑星キン・ザ・ザ』(1986年)を監督したゲオルギー・ダネリヤが死去との報せ。しかしゲオルギー・ダネリヤといえばキン・ザ・ザよりも『モスクワを歩く』(1963年)である。
夜、Jacques Loussier Trio「Play Bach No.2」を聴く。
Saturday, April 6
朝、ラジオから流れる天気予報で、絶好の花見日和ではあるものの花粉が大量に飛散し、黄砂も飛んで、紫外線が強烈な一日になるでしょうと暗に花見を否定するようなことを言っている。
NHK-FMのゴンチチ「世界の快適音楽セレクション」をradikoで聴く。4月から正式のサービスとしてNHKはラジオ放送をradikoで配信しはじめたが、タイムフリー機能に対応しておらず、radikoの存在意義をまるで理解していないような配信である。
スターバックスでカプチーノを飲みながら雑誌をめくる。花と花束を特集した『BRUTUS』(マガジンハウス)とパリの食事処を紹介する『FIGARO』(CCCメディアハウス)の二冊。
渋谷のディスクユニオンを冷やかして、本家しぶそばで昼食ののち、山手線で原宿駅へ。明治神宮に立ち寄ってみる。生まれてはじめて明治神宮というところに来た。意外とこじんまりしている。表参道方面に向かい、ヘスス・ラファエル・ソト「Pénétrable BBL Bleu」(エスパス ルイ・ヴィトン東京)、ハーヴィン・アンダーソン「They have a mind of their own」(ラットホール・ギャラリー)、チャド・ムーア「MEMORIA」(agnès b. galerie boutique)を見てまわる。
千代田線で表参道から乃木坂に移動し、青山霊園の桜を見物。銀座ウエストで休憩できるかと淡い期待を抱いたものの、予想どおり大行列でとてもじゃないが入店する気にはなれず。お茶をする時間より待っている時間のほうが長そう。
千代田線と銀座線を乗り継いで銀座に移動する。ギャラリー遊弋。「ポーラミュージアムアネックス展2019 創生と技巧」(ポーラミュージアムアネックス)と「ピエール セルネ&春画」(シャネル・ネクサスホール)。シャネルで今年の「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭」のチラシを手に入れる。
銀座を歩いていたら、オープンしたばかりの無印良品の銀座店に長蛇の列ができている。中目黒のスターバックスもそうだが、できたばかりの目新しい建築物を訪れたい気もちはわからないではないが、しかし長い時間待った末にたどり着く先が無印やスタバである。出てくる商品はほかとだいたい一緒だろう。並ぶ意味がわからない。
銀座での食事処を探していたらBelgian Brasserie Court Antwerp Sixが昨年末に閉店していたと知る。
晩ごはんは、Aux Bacchanalesにて。ニース風サラダ、田舎風テリーヌ、フレンチフライ、バゲット、赤ワイン。
夜、Mari Jürjens「27」を聴く。
Sunday, April 7
はりきってだるい。花粉を大量に吸い込んだきのう影響でくしゃみを連発する。
朝の映画、『叫びとささやき』(イングマール・ベルイマン/監督、1973年)を見る。登場人物たちが赤ワインを飲むシーンで、結構飲んでいるはずなのにぜんぜん量が減っていないのが気になる。
近所のスーパーで買いものを済ませて、昼食にレトルトのカレー(京の九条のねぎのグリーンカレー)を食べてから、読書。倉橋耕平『歴史修正主義とサブカルチャー』(青弓社)を読む。保守派を十把一絡げにしすぎ。
夕食の一品として、田園調布のMetzgerei SASAKIでソーセージを買う。晩ごはん、ソーセージ、サニーレタスとサラダほうれん草とトマトのサラダ、しめじと舞茸のバルサミコ酢とオリーブオイル炒め、クリームコロッケ、バゲット、シメイ・ホワイト、赤ワイン。
夜、Giovanni Guidi「Avec le temps」を聴く。