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Monday, January 28

レコード棚から女性ボーカルものを二枚。Jerri Winters「Winters Again」とRuth Price「My Name Is Ruth Price…I Sing」。

貴堂嘉之『移民国家アメリカの歴史』(岩波新書)を読む。

欧米諸国が近代国民国家を形成した「長い19世紀」(フランス革命が始まった1789年から第一次世界大戦が始まる1914年まで)におけるグローバルな人流には、自由移民と並行して、不自由で強制的な多様な人流が混在し、これらの移動が相互に構造的に連鎖し、グローバルな広がりを持っていた点に特徴がある。植民地時代に遡れば、ニューイングランド以南の入植者の半分以上は白人年季契約奉公人であったし、建国後も、中国人移民/苦力を含め渡航費を前借りしたかたちでの契約労働者の入国パターンは、19世紀後半まで残存した。
つまり近代世界とは、決して「自由」一色で塗り固められていたわけではなく、「不自由」が共存する時代であった。世界規模で奴隷貿易が廃止され、奴隷解放が達成されるなか、世界の労働形態が「不自由労働」から「自由労働」へと不均等に移行していく時代が近代なのである。アメリカに即して言えば、奴隷制という不自由を抱えて船出した「奴隷国家」アメリカがいかにして、自由労働者からなる「移民国家」へと移行したのか。こうした観点から歴史をとらえ直すことで、従来の移民史を乗り越えることができるのではないか。
これまで、移民史と黒人史/黒人奴隷史は奇妙なほど交差せず、別個の領域として研究が進められてきた。しかし、アジア系移民の問題は、じつは奴隷解放問題と不可分に結びついた社会問題だったのであり、本書ではこれらの研究を接続させる試みを積極的に行なっていきたい。

夜ごはん、鶏肉入りじゃがいものポタージュ、ベビーリーフと紫玉ねぎのサラダ、赤ワイン。

Tuesday, January 29

Deerhunter「Why Hasn’t Everything Already Disappeared?」を聴く。

午後の就業時間を目一杯つかった打ち合わせが長引いて終わりを迎えず、残業。

橋本治死去の報せ。天才が死んでしまった。

夜ごはん、焼き餃子、麦酒。

Wednesday, January 30

松田純『安楽死・尊厳死の現在 最終段階の医療と自己決定』(中公新書)を読む。オランダでは安楽死が認められているので、そういう権利があるのかと思ったらちがうという。

オランダでは、正確に言えば安楽死は患者の「権利」ではない。患者の生命終結の行為は、通常の医療行為ではない。安楽死への患者の要請に、医師は必ず応えなければならないという義務はないのだ。信条として安楽死を行わないという医師もいる。安楽死を行う医師であっても、当該のケースは「注意深さの要件」を満たさない、あるいは複雑すぎて引き受けられないという場合もある。患者の要望に応えて安楽死を実施するか否かの最終決定権は医師にあるのであって、患者にあるのではない。
つまり、安楽死を実施するか否かは、医師の裁量に委ねられている。その意味で、オランダの安楽死は、患者の自発的な要請が前提になっているが、患者の自己決定権ではない(『オランダ医事刑法の展開』)。「死ぬ権利」ではなく、むしろ、死を医師の管理下に置く「死の医療化」なのだ。実際に、安楽死を要請しても、実は約半数は実施に至らない。

夜ごはん、醤油ラーメン、麦酒。

『牯嶺街少年殺人事件』(エドワード・ヤン/監督、台湾)を見る。4時間ある映画なのできのうきょうで分割しての鑑賞。素晴らしい映画でたいへん感銘を受ける(いまさら)。

Thursday, January 31

立場上、遁れられない飲み会に出席。場所はハワイアンの店で、飲み放題のドリンクメニューによくわからないカクテルが並んでいて、どれを注文してもすべてあんまりおいしくないという奇怪な店で、誰もが普通のビールをたのむという事態に。

Friday, February 1

終わりのみえない会議が長びいて残業。疲弊。『図書』2月号(岩波書店)を読む。

夜ごはん、グリーンカレー、グリーンリーフとコーンのサラダ、麦酒。

Saturday, February 2

髪を切るために近所の床屋へ。順番待ちのあいだに武田徹『井深大 生活に革命を』(ミネルヴァ書房)を読む。

岡留安則の訃報を知る。噂話と口喧嘩の主戦場が紙媒体からインターネットにスライドした現状を踏まえると、『噂の真相』を2000年代前半に休刊させたのは、たいへん賢明な判断であったのかもしれない。

Sunday, February 3

自宅シネマ。『帰ってきたヒトラー』(デヴィット・ヴェント監督、2015年)を見る。そこそこおもしろい。