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Friday, January 19

朝、バゲット、オムレツ、ハム、サラダほうれん草、ヨーグルト、珈琲。

鶴岡真弓『ジョイスとケルト世界 アイルランド芸術の系譜』(平凡社)読了。ケルト美術およびケルトの装飾文様が決してヨーロッパの辺境的なものではなく、むしろヨーロッパ文化の奥底に流れるものであることを、ジョイスやシングを引きながら論じた一冊。『フィネガンズ・ウェイク』と『ケルズの書』の比較は、理解できない部分が多々あるものの、なかなか愉しい。

『ケルズの書』の装飾のヴィジュアルが、いかにジョイスのリテラルに照応するか。「母言書」の章のどこを取り出しても(そう、ジョイスはそう言った)、ジョイスの方法が、『ケルズの書』的であることが確認できるだろう。
「手紙」のあとに続く、「この変幻形妙な綴り図はそのものが多面体の文書となっている」(FW一一八 ((FWは、「『フィネガンズ・ウェイク』柳瀬尚紀訳、河出書房新社、一九九一年」、「漢数字は頁数を示す」とのこと)))というジョイスの文は、「トゥンク頁」の怪獣の変化振りに対応するし、有名な「いかなる頁にも転倒コンマ(ときに引用符と呼ばれるもの)の不在していること」(FW一二〇)は、ケルト装飾術の以下のような鉄則と対応しよう。つまりそこでは、個物(体)はそれであるという保証を剥奪され、時間・空間の秩序を間接話法的に固定せず、相対性の宇宙に、小動物であれ、組紐であれ、クローバーであれ、文字であれ、あらゆる存在が放り込まれているのだ。
したがって、ものの大小(スケール)も固定しないから、大小(マクロとミクロ)の逆転がつねにおこる。この顚倒の視覚を最も効果的になしとげるため偏愛される方法が、ケルト渦巻文様なのだが、大きな渦巻の中に無数の小さな渦巻を生み、その小さな渦巻の内側に大きな渦巻があるという具合だ。胡桃の中に宇宙がみえる、そういう逆転の視覚性を『ケルズの書』の装飾はいたるところで展開する。
(p.191-192 「それである」には傍点が振られている)

夜、海鮮丼(しめ鯖、鮪、生卵、かいわれ)、たこわさ、ビール。食べながら「粋な夜電波」を聴いていたら、菊地成孔が、一昨年、昨年あたりはロレックス低迷期だったから今年は頑張りたいみたいなことを言っていて、わかるわかる、低迷期ってありますよね、わたしも一昨年昨年あたりは読書低迷期だったよ、今年は頑張りたい。と思った。

『ユリイカ』2018年1月号「特集=サニーデイ・サービス」をパラパラ読む。中村一義と澤部渡の並びに、涙出そう。この二人の文章を真っ先に読んだ。