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Thursday, November 30

ギュスターヴ・フローベール『ボヴァリー夫人』(山田爵/訳、河出文庫)を読了。

Friday, December 1

エコノミスト誌がイエメンを特集している。イエメンにおける泥沼化する内戦(というかサウジアラビアとイランの代理戦争)がクローズアップされる機会は少なく、シリアの惨状が国際社会の注目を浴びているのに較べて、イエメンは忘れられた存在となっている。シリア難民がヨーロッパで政治問題化しているのに対し、テロリスト集団を生む温床のリスクがあるとはいえ、イエメン内戦は、西欧からすればじぶんたちで解決してくれという他人事となっている。ヨーロッパですらそんな感じなので、日本語で読めるイエメン情報はほとんどないのだが、イエメンに関する本は何かないかとAmazonを物色していたら観光ガイド本がヒットした。アラブの春の前までは、旅することのできたイエメン。外務省はいま、邦人はイエメンから直ちに退避するよう勧告している。

夜、ジョナス・メカスの『Short Film Works』を見る。

Saturday, December 2

庭の紅葉を目当てに五島美術館へ。「光彩の巧み 瑠璃・玻璃・七宝」を鑑賞。庭の紅葉は素晴らしく、人も少ないので穴場。美術館から歩いて二子玉川へ。高島屋の屋上庭園にある「OXYMORON」で昼食。カレーとビール。二子玉川という街は駅周辺だけで完結する閉じた雰囲気があって、演出された華々しさというものが東急グループの開発したディズニーランドっぽさを感じてしまう。

Sunday, December 3

掃除、植物の世話、洗濯、アイロンがけ、料理。『図書』12月号(岩波書店)と『みすず』12月号(みすず書房)を読む。以下、『みすず』掲載の酒井啓子「カタルーニャとスコットランドとクルドの、見果てぬ夢の夢」より。

同じ「民族」でも、国家を担う民族とそうでない民族とでは、天と地の差がある。国家を持てば、領土と国民を支配する正当性が得られる。外敵に対しても、外交交渉や軍事力を行使する権利が与えられる。国連など国際機関で発言力を持てるし、海外との交易や援助を受けることも堂々と行うことができる。
どんな「民族」も国家樹立を目指して目の色を変えるのは、国家が持つ権力が圧倒的に大きいからである。一世紀も前にアメリカのウィルソン大統領が提唱した「民族自決の原則」が、いまだに世界の「民族」に夢と野望をもたせているのだ。
だが、「国家」を持てるかどうかには、明らかに「選別」がある。すべての民族、すべての独立を願う人々に、世界は「独立」を認めるわけではない。植民地からの自由、社会主義からの自由を求める者たちに優先的に独立が与えられ、それから独裁からの自由が優先される。植民地宗主国に、冷戦の勝利者たる自由主義陣営に、独裁を糾弾する人道主義者に、認めてもらって獲得することができた。
しかし、そこから解放されるべき「独裁」は、しばしば国際社会の都合で、「憎むべき独裁」となったり、「民族紛争を適切に処理するリーダーシップ」と言い換えられたりする。どうせ国際社会の恣意で独立が認められないのなら、住民の意思など問うても問わなくても同じではないか。周辺国や国際社会からつるし上げにあうくらいなら、「国家」の持つ権力など追求する必要などないのではないか。
ならばなぜ、繰り返し「民族」はその独立への意思を主張し続けるのか。四面楚歌になっても、「投票済み」のインクを付けた指を誇らしげに掲げて、満面の笑みを浮かべるのか。そこには、「国家」権力という甘い汁を求めるだけではない。人々の心を震わせるなにかがある。なぜ人は見たこともない他人のために、同じ民族だというだけで命を捧げようとするのか、というベネディクト・アンダーソンの問いを思い起こすまでもなく、ナショナリズムという魔力が、人々を「独立を巡る投票」に駆り立てる。