Monday, November 14
スピノザ『国家論』(畠中尚志/訳、岩波文庫)を読む。
その臣民が恐怖に制されてのみ武器を執らない国家は、戦乱がないとは言えるが平和状態にあるとは言われない。実に平和とは戦争の欠如ではなくて、精神の力から生ずる徳だからである。服従にしても国家の共同の決定に従ってなされなければならぬことを実行しようとする恒常的意思なのであるから。ともあれその平和が臣民の無気力の結果にすぎない国家、そしてその臣民があたかも獣のように導かれてただ隷属することしか知らない国家は、国家というよりは曠野と呼ばれてしかるべきである。(p.59)
Tuesday, November 15
アメリカ大統領選挙が終わってからアメリカのことばかりを考えている。やっぱりアメリカ人って馬鹿なのかなあと言いたくなる欲望を堪えるところから思考を始めなければならない。
Wednesday, November 16
予想は、外れるよりも当たるほうがよいと考えるのが通例である。しかし、アメリカ大統領選挙の結果を的中させたのが、日本だと木村太郎や堤未果だと知って、選挙予想の素質とジャーナリストとしての力量とはまったく別次元の話だなと思った。
Thursday, November 17
アメリカのことを考えている。アメリカって何だろう。アメリカを理解するための論考がぱっと思い浮かばなかったので、なんとなくフィクションを読んでいる。グレアム・グリーンの小説『おとなしいアメリカ人』(田中西二郎/訳、早川書房)。ベトナム戦争直前のサイゴンを舞台に、イギリス人の老記者が、若いアメリカの男にベトナム人の愛人を奪われるという粗筋に、政治的・外交的思惑が交差する。
いっそわれわれはみな他人を理解しようと努めないほうがいいのではないか、人間というものは一般に、妻は夫を、恋人はその情人を、そして親は子供を、決して理解することがないという事実を承認して、他人を理解しようとすることをやめてしまったほうがいいのではあるまいか? おそらく、だからこそ人間は神を発明した――理解する能力のある存在を。おそらく、もしおれが理解されたがったり、理解したがったりしたら、きっとおれは進んで信仰に迷いこんだことだろう。けれどもおれは報道記者だ。神は、もっぱら論説記者のためにのみ存在するのだ。(p.66)
Friday, November 18
エコノミスト誌を読む。世界各地のニュースにトランプの影がまとわりついている。
Saturday, November 19
朝から昼過ぎまで読書。
荒川洋治『過去をもつ人』(みすず書房)。以下、斎藤隆夫の自叙伝『回顧七十年』(中公文庫)にふれて。
議会政治の力を思い知った。この回顧録には、当時の文学・思想界を席巻した左翼の動静は全くといっていいほど出てこない。議会への通路について考えをもたない反戦思想、プロレタリア文学は、現実とは別の世界に置かれていたことになる。議会政治が政治のすべてではない。だが議場の外側での動きは、どのようによいものであっても力とはなりえないのだ。そのことを忘れてはならないと感じた。(p.75)
10月号の『みすず』(みすず書房)に、池内紀がジャン・アメリーについてエッセイを書いているのを読んで興味をもち、彼の著作を二冊読む。『罪と罰の彼岸』と『さまざまな場所 死の影の都市をめぐる』。どちらも、翻訳は池内紀で版元は法政大学出版局。『罪と罰の彼岸』については最近みすず書房から新版が刊行された。ジャン・アメリーという名はフランス人風だけれど、これはペンネームで、ウィーン生まれのユダヤ人。アウシュヴィッツ強制収容所からの生還者。以下の引用は『罪と罰の彼岸』から。
まず生じたことは美的な死のイメージが跡かたもなく消え失せたことである。それがいかなるものか、たぶんおわかりだろう。知識人、とりわけドイツ語圏で教養を身につけたインテリは、死を審美的に考えたがる。古くは中世の、近くはドイツ・ロマン派の特産品である。ノヴァーリス、ショウペンハウアー、ワーグナー、トーマス・マンといった名前をかぞえていくとき、美的な死のイメージについて、おおよそおわかりになるだろう。ところがアウシュヴィッツでは文学的な死も、哲学的な死も、音楽的な死もなかった。そのたぐいの死の余地など皆無であった。アウシュヴィッツの死から『ヴェニスの死』へとつながるような橋などありえないのだ。むしろ一切の詩的な死のイメージが煩わしかった。ヘルマン・ヘッセの短篇『善良な弟の死』にみるような死にしても、またリルケの、
主よ、それぞれにその人の死を与えよ
といった詩句にしても、ただただ耐えがたいだけであった。それらがいかにナンセンスであったことだろう。つまり、彼は思い知ったわけだ。美的な死のイメージは、とりもなおさず美的な生の営みの一部にほかならない。美的な生がきれいさっぱり欠けたところでは美的な死もまた優雅なたわごとである。強制収容所の死にはワーグナー歌劇におけるようなトリスタンの音楽など鳴り響かなかった。あったのはただSSとカポーのがなり声だけだった。死がたかだか収容所当局の帳簿に「死亡」と記されるにすぎないところでは、それは一人の人間の個人的な内容を失っていた。死を予期して美的な衣装を願うのは卑劣であり、収容所仲間にとっては不当な要求というべきものだった。(pp.34-35)
夜、自宅シネマ。巨額の費用を投入したものの興行的には失敗に終わり、ジャック・タチを破産させた映画『プレイタイム』(1967年)を見る。タチの映画のなかでいちばん好きな作品。『ぼくの伯父さん』などよりも『プレイタイム』のほうがずっとおもしろいと思うのだが。
Sunday, November 20
図書館で借りた中西夏之『大括弧 緩やかにみつめるためにいつまでも佇む』(筑摩書房)は、確認してみたら絶版状態。 筑摩書房は学芸文庫入りさせる予定はないのだろうか。
樹々の紅葉も美しく好天に恵まれた本日の上野公園は、すごい数の人出。PARK SIDE CAFEで昼食をとってから、東京藝術大学大学美術館の陳列館で「Robert Frank: Books and Films 1947-2016 in Tokyo」を見る。シュタイデルと組んだ展覧会の東京版。ロバート・フランクは一時期映画制作に凝り、本展でも彼の映像作品が上映されていたが、写真家としての天稟があまりに突出しているため、彼を映像作家として捉える人はほとんどいないのではないかと思う。
注文しておいたクリスマスリースを花屋に取りに行く。クリスマス支度はじまる。