233

Monday, September 7

ジョーン・ディディオンの評伝(『The Last Love Song: A Biography of Joan Didion』)の書評をなにかで読んで、その本自体には特段興味を抱かなかったのだが、書物の表紙を飾っている、右手で煙草をもち正面を見据えるジョーン・ディディオンの姿がなかなか格好よくて印象にのこり、そもそもの話としてジョーン・ディディオンって誰なんだかよく知らなかったので参考までにウィキペディアに目をとおしてみたら、

夫とは40年間いつも一緒で、ニューヨークのアッパー・イースト・サイドの自宅アパートの隣あった部屋にそれぞれ仕事場を持ち、朝は二人でセントラル・パークを散歩し、近くのスリー・ガイズ・レストランか高級ホテルのカーライルで朝食を取るのを日課としていた。デイヴィッド・ハルバースタムら、ニューヨーク文壇に多くの友人を持ち、夫の一族の行きつけで、セレブ御用達のイタリア料理店「エリオズ」の指定席で毎晩のように夫婦で食事をとる、といった優雅な日々を送っていた。

といういささか鼻持ちならない風情の暮らしぶりが、『Vanity Fair』誌の記事からの引用として確認できるのだけれど、夫は心臓発作で、そして養子として迎えた娘も世を去ってしまう、なかなか波乱万丈な人生を送っている作家なのだった。先週は『60年代の過ぎた朝』(越智道雄/訳、東京書籍)というニュージャーナリズムの書き手として脚光を浴びた時代の仕事を束ねた本を読み、本日は彼女が喪ったふたりについて綴った『悲しみにある者』と『さよなら、私のクィンターナ』(いずれも池田年穂/訳、慶應義塾大学出版会)を読んだ。慶應義塾大学出版会という版元がやや意想外な感じ。

夜、玉ねぎと人参とほうれん草の焼きそば、ビール。

Tuesday, September 8

昨日も雨で、今日も雨。『花椿』10月号(資生堂)が届いたので封を開けると、本年の12月号をもって月刊誌を終了し、Web版の全面的リニューアルを実施する旨の通知文が入っている。紙媒体を終了させてWebに移行したものの、あっけなく撃沈した文化出版局の『high fashion』のことが頭をよぎる。

夜、ベーコン、ズッキーニ、茄子、レタスのパスタ、白ワイン。『The New Yorker』誌を読む。

阿古真理『小林カツ代と栗原はるみ 料理研究家とその時代』(新潮新書)を読む。あまたの料理研究家のなかから、家庭で実際に料理をする人びとに寄り添った、きわめて「大衆的な」存在であった小林カツ代と栗原はるみを軸として論を組み立てているのが功を奏している。小林カツ代が起こした革命を、栗原はるみが継承して安定政権を築く、という流れ。

今でもそうだが、料理研究家の多くは加工食品を使わない。味の決め手になるドレッシングや、たれもつゆも手づくりする。カレーもルウではなくカレー粉やスパイスを使う。市販品を使う場合は、手を抜く言い訳をする。すべてを手づくりしなければならない、という神話でもあるかのように。
しかし、小林カツ代は、手を抜きたい主婦の現実を見越したかのように、特に洋風の料理は、あっさりと市販品に手を出す。カレールウを使うカレーライスのレシピもある。トマトケチャップやトマトジュースは、小林のトマト味料理の定番材料である。(p.110)

栗原の思いは、レシピ前にあるショートエッセイから伝わってくる。
「ものの本によると、ビーフシチューには、ドミグラスソースが必要だったり、ブラウンソースを作らなければならなかったりで、そのとおりにしようとすると、一大決心がいります。それでは、ビーフシチューは一年に一度、ということにもなりかねないので、ひとつの鍋で、どんどん材料を加えて煮込むだけの方法を考えました」
手づくりにこだわる料理研究家の常識に挑戦し、ハードルが高いビーフシチューを万人のものにしたい。レシピ本で異例のミリオンセラーとなった要因は、レシピの民主化にあった。小林が起こした家庭料理の革命を、栗原はるみは完成させたのである。(p.145)

エピローグで高山なおみに言及しているが、そのあたりについて書くとなるとまた別の「論」として一冊必要になるだろう。ところで、有元葉子が生年を非公開にしているのをこの本で初めて知ったのだが、しかし「旧満州生まれ」とあるのを読んで、果たして非公開にする意味があるのかと思う。

Wednesday, September 9

中井久夫『戦争と平和 ある観察』(人文書院)を読む。あとがきで「こんなのを本にしてしまった、という思いが年々強まる。もうあまり目立つのが気恥ずかしいので新たに本を出すことはずいぶんと躊躇された」と、相変わらずの謙虚っぷり全開の中井久夫だが、現在書店に並んでいるあまたのどうでもいい本にくらべれば、はるかに精到な内容の書物であることはいうまでもないので、どんなものでも本にしてほしい。

平和の論理がわかりにくいのは、平和の不名誉ではないが、時に政治的に利用されて内部で論争を生む。また平和運動の中には近親憎悪的な内部対立が起こる傾向がある。時とともに、平和を唱える者は同調者しか共鳴しないことばを語って足れりとするようになる。
これに対して、戦争の準備に導く言論は単純明快であり、簡単な論理構築で済む。人間の奥深いところ、いや人間以前の生命感覚にさえ訴える。誇りであり、万能感であり、覚悟である。これらは多くの者がふだん持ちたくて持てないものである。戦争に反対してこの高揚を損なう者への怒りが生まれ、被害感さえ生じる。仮想された敵に「あなどられている」「なめられている」「相手は増長しっぱなしである」の合唱が起こり、反対者は臆病者、卑怯者呼ばわりされる。戦争に反対する者の動機が疑われ、疑われるだけならまだしも、何かの陰謀、他国の廻し者ではないかとの疑惑が人心に訴える力を持つようになる。
さらに、「平和」さえ戦争準備に導く言論に取り込まれる。すなわち第一次大戦のスローガンは「戦争をなくするための戦争」であり、日中戦争では「東洋永遠の平和」であった。戦争の否定面は「選択的非注意」の対象となる。「見れども見えず」となるのである。
平和の時には戦争に備え、戦争の際に平和を準備するべきだという見解はもっともであるが、戦争遂行中に指導層が平和を準備することは、短期で戦勝に終わる「クラウゼヴィッツ型戦争」の場合にしか起こらない。これは一九世紀西欧における理想型で、たとえ準備してもめったに現実化しない。短期決戦による圧倒的戦勝を前提とする平和は現実には稀である。リデル=ハートが『戦略論』で「成功した戦争は数少ない」と述べているとおりである。妥協による講和が望みうる最良のものであるが、外征軍が敵国土に侵攻し、戦争目的が体制転覆さらには併合である場合の大多数では、侵攻された側の抵抗は当然強固かつ執拗となり、本来の目的が容易ならぬ障壁に遮られ、しばしば「戦争の堕落」とでもいうべき事態が起こる。
(p.18-19)

中井久夫の書くものを引用すると、どこで止めればいいのかわからなくなる。

夜、醤油ラーメン、ビール。

Thursday, September 10

夜、アンチョビと牛肉のステーキ、人参ときゅうりのサラダ、小松菜のソテー、バゲットとクリームチーズ、赤ワイン。赤ワインを飲みすぎる。『みすず』9月号(みすず書房)を読む。

Friday, September 11

夜、白米、長ねぎとわかめの味噌汁、秋刀魚の塩焼き、大根おろし、おろしきゅうりと冷奴、小松菜の鰹節炒め、キムチ、ビール。『The Economist』誌を読む。

Saturday, September 12

五反田駅から少し歩いてたどり着くフランクリン・アベニューで昼食。11時半ごろについたら、ほぼ満席に近い状態だった。この店の混雑状況はいつもよくわからない。混んでるだろうと思って訪れると誰もいなかったりする。ベーコンチーズバーガー、ポテト、サラダを食べ、ふくろうのイラストがラベルに描かれたベルギービールを飲む。

御殿山付近を歩いて原美術館に向かう。現代美術作品を熱心に収集していることで知られるドイツ銀行。そのドイツ銀行が所蔵する現代写真のコレクションを展示する「そこにある、時間 ドイツ銀行コレクションの現代写真」展を見る。展示室をぐるっとまわって出てくる感想が、やっぱりルイジ・ギッリやベッヒャー夫妻の写真は素晴らしいという、代わり映えのしない穏当なもので新鮮な驚きのようなものはなかった。

山手線で品川から目黒に移動。東京都庭園美術館で「アール・デコの邸宅美術館 建築をみる2015 + ART DECO COLLECTORS」。もう何度訪れたのかよくわからなくなっており見飽きた感すらある庭園美術館だけれど、懲りずに何度でも来る。庭園美術館には何度も来ているのに、お隣の国立科学博物館附属自然教育園にはいちども行ったことがない。

庭園美術館近くのJubilee Coffee and Roasterで休憩。道路に面した大きな窓から西日が差し込むなか、本を読みながら珈琲を飲む。

Sunday, September 13

カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』(土屋政雄/訳、早川書房)を読了。

どうでもいい話をひとつ。アトレに入っているスターバックスで注文するとアトレカードの所有の有無を訊かれるのだが、ツタヤと併設のスターバックスではTポイントカードの有無は訊かれない。訊かれるのはドトールだ。しかし蔦屋書店にあるスターバックスではTポイントが貯まるらしい。このへんの力関係はどうなっているのか。と書いていて、ほんとうにどうでもいい話だと思う。

夜、焼肉、ビール。自宅で焼肉をやると安くあがるので経済的にはよいが、量を食べすぎてしまい身体的には悪い。